”評価”とは一体なんなのか(後編その1)
プロ雑用です!
だいぶ前に評価についての話をまとめたnoteを書きました。
3年越しに続きを書いてみようと思いますw
ということで、評価について考えてみる話・後編その1です。
評価制度はなぜ嫌われるのか/嫌いなのか
その理由はたった1つだと思っていて、それは、
「評価と報酬がセットになっているから」
です。
給与と紐付いて制度が運用されている組織は多いですが、これさえなければ評価制度も本来の意味で正しく機能するはず。しかし、評価と報酬に密接な関係を持たせてしまっているがゆえに、いろんなことが歪んでしまっているのです。
評価が報酬を決める理不尽さ
最初に給与というものについて考えてみます。
給与の定義は辞書を引くと「雇用契約に基づいて雇用主から従業員へ定期的に支払われる、労働の対価報酬」とあります。
ここでポイントとなるのは「労働の対価報酬」という部分です。定義としてはそうだし、ある程度納得感はありますが、ではそもそも「労働の対価」って何?という話になります。
労働とは「人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段などをつくり出す活動のこと。からだを使って働くこと」とあります。からだを使って働くために、リソースとして「時間」「技能(技術と能力)」を投下します。
時間は、その仕事を行うのに使った時間、工数とも言う場面もありますね。時間は数少ないすべての人間の平等条件(重力とその影響による時間の流れの違いは今のところ無視します)ですが、しかし、わかりやすいが故に、理不尽な側面もあります。
時間の計測だけを見ると、同じ仕事を行うのに、熟練者のほうが短い時間で仕事をこなせるため、技能が高いと時給は安くなるんですよね。もちろん、すべての労働者が時給制ではありません。時給制ではない場合は、もう一つの技能という軸があるわけですが、が、この「技能」というのが、評価においては極めて厄介なのです…。
評価は相対でしか判断できない
だって、ねぇ、能力・技術って、定量化できませんよね?そして同じ基準で見れませんよね。営業スキルでもなんでも、パラメーター多すぎませんか。学校の勉強とて定量化できる部分は限定的で、それは高等課程になればなるほど、定量化されるものの割合は少なくなっていきます。研究とか定量化できんでしょ。同じように労働に必要な技能は、多岐にわたり、一概に並列で比較することはできません。それこそ、単純作業でない限り。
そう、一般的に評価というのは、並べて評価する「相対評価」です。
評価には絶対評価と相対評価がありますが、労働において絶対評価というのは本質的に不可能です。絶対評価の説明で代表的なのは「目標への達成率150%ならS評価、120% ならA評価、100%ならB評価」という感じですが、そもそも目標を全員同一に設定することが無理だという前提が無視されています。それができるのは全国模試みたいなあらかじめ正解があるものだけ。
相対評価である以上、環境要因に多くが左右されます。自分より優秀な集団の中では埋没するし、技能が低い集団の中では評価される、比較対象が存在しない単体職種は…必然的に対象外になります。相当なレアスキルかつ社会的需要の高いものでないと、評価されません。
”評価”を支配する認知の歪み
評価が比較である以上「人間の認知能力」が強く、想像以上に強く影響しています。人間は人間であるがゆえ、評価は、我々が考えるほど理想的にはならず、考えれば考えるほど理想から遠ざかるのです。
われわれは普段、自身を動物だとは、つよく認識していません。
どことなく、人は他の動物とは全く異なると、半ば無意識に考えてはいないでしょうか。その根拠となるのは、人間は知性と判断力を備え、論理的に行動している、という点ではないかと思います。
しかし、観察していくと、ヒトの行動も、ほとんどが本能的な部分が多くあり、われわれ自身が考えているほど、理想的な成熟したふるまいはできていません。評価というのものを語る上で、この影響はとてもとても大きい。
…
というところで、続きはまた次回。
たぶん、あと5回ぐらいつづくよ!
それじゃ、また👋
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