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新しい神の信仰者は古い神を駆逐しようとするが、新しい地は古き血の上に立脚し、時代はそれを繰り返す。

プロ雑用です!
今日は二元論の対立構造について。


たとえばそれは矛と盾

いまさら矛盾についての解説はくどくどいらないでしょう。最強の矛と盾はどちらが強いのか、というお話ですが、この話の結論は実に簡単で、矛と盾が最強ならそれ同士の戦闘はそれを使うものの技量による、でしかありません。ただし、これは戦闘フェーズの話で、戦術になると違ってきます。戦術における最強の矛と盾は、数の勝負です。最強の矛と盾を、対立する陣営のどちらが多く所有しているか…

ダイヤモンドのモース硬度は標準鉱物の中では最高位ですが、だからといって決して砕けないわけではなく、特定方向からの衝撃には簡単に傷が点くことが知られています。

最強の矛と盾がどんな形や材質かはわかりませんが、結局のところ物質である以上、状態や環境、使用方法によっていくらでもその結果は変化します。

アジャイルとウォータフォール

昨今、よく語られるのが開発手法のアジャイルとウォーターフォールの対立です。これからの開発はアジャイルだ、アメリカの企業はもうウォーターフォールは古いとしている、などなど。それらは確かに事実ではありますが、この手の二元論に欠けているのは、その手法を使う状況や環境の視点です。

アジャイル手法を使って開発する際、そもそも開発する環境(組織やその文化、人の意識、知識)がアジャイルに適していなければ、効果を発揮しません。やり方だけ変えれば素早い開発ができるようになるわけではないのですが、人間というものは視野が狭いため、手法の話をしていると手法にしか目がいかないのですね。

この話は、車の燃料で例えれば、ハイオクは優れている・レギュラーはダメ、というような視点だけで語っているようなものです。

OODAとPDCA

次によく見かけるのが、OODAとPDCAの対立です。これらは業務管理や品質管理などに用いられる手法ですが、これもアメリカ軍はすでにOODAになっているのでPDCAは時代遅れ、のような耳タコフレーズで語られます。

特性として、OODAは状況変化が激しいいわば空中戦や機動戦に適するし規模的には小規模グループのほうが相性が良い。一方でPDCAは比較的緩やかな状況での籠城戦や消耗戦に適し役割分担のしっかりした大規模グループとの相性が良いです。

さらに言えば個人レベルでは高速PDCAが回せればそれはOODAとほぼ変わりありません。個人レベルでは「好きな方を使え」という話です。

そもそもですが、OODAにしろアジャイルにしろ「計画を立てずに突っ走る、反射神経でなんとかする」ということではありません。それは単なる『考えなしの行き当たりばったり』であり、OODAでもアジャイルでもありません。

OODA使ってるからPDCAを使わない、ウォーターフォール使ってるからアジャイルはしない、ではないのです。結局のところ、これらは決定プロセスの問題なのですから、それは目的と状況によって使い分けるものなのです。
これ、矛と盾の話と同じですよね。

漫画のキャラクターみたいに矛一本で防御もこなす、盾一つで攻撃も兼ねるような超人なんて現実存在しないんですから、矛も盾も状況に応じて使い分けなさいよ、っていう話なのです。

エフェクチュエーションとコーゼーション

最近ではこの対立議論に、エフェクチュエーションとコーゼーションが登場しました。これは仕事における思考(推論)プロセスの違いを示し、簡単にいえば状況変化に対して柔軟な思考プロセス・エフェクチュエーション、目標からの逆算で計画的に思考するのがコーゼーションです。

いずれにしてもコーゼーションは時代遅れ、エフェクチュエーションこそが新時代だ!みたいな意見はお腹いっぱいです。

独裁政治と民主政治

政治形態は色々ありますが、似たような対立構造で語れるのは独裁と民主でしょう。独裁主義は極めて悪いイメージがあります。社会主義・共産主義との相性が良いことからもそのイメージは加速しています。ですが、コロナパンデミックでもわかった通り、危機的かつ可及的速やかな決断が求められる状況では、民主的手続きでは遅すぎるということもあります。

しかし一方で独裁は「間違えることが許されていない」という厳しい条件がつくため、一度間違え始めると取り返しのつかない崩壊を招きます。また平和な時代、つまり誰も飢えない社会では独裁者は廃絶されますから、常に内外の両方に敵を必要とします。

結局のところ、政治形態の違いは決定プロセスの違いですから、どれが・どちらが優れているかどうかということではないのです。

全てはグラーデーションとバランス

あなたはどちらの神を信じますか

いずれの対立も(政治形態を除いて)、古臭い・時代遅れと呼ばれた手法のほうが先に確立されている。そのことからも分かる通り、要するにその時代や情勢においての最適解として、これらの手法は見出されてきた、ということなのです(作られたわけではなく、発見されたという表現のほうが正しいと個人的には考える)。

組織の進化段階、あるいは個人の欲求フェーズなどと同様、地層のような積み重なりの先に現れるもの、手法、手段、システム、ツール、なんでも人間の知識は地層と同じで積み重なった閾値の中にこそ発掘されるもので、先に手法があるのではなく、まず人間の活動や思考が先にあり、その幾重の積み重ねの中から「どうやらこういう場合にはこういうやり方や考え方が有効っぽいぞ」という話がある種の形をなしているだけの話なのです。

その証左ではないがヒントとして、OODAループは1970年頃には提唱されたが、その内容は古くは孫氏の兵法にもあるとされるし、提唱者自身はトヨタ生産方式がこれを先取りしていると述べています。つまり、なんら新しい考えではないのです。新しい形を与えられただけなのです。

そう考えれば、後に学んだ者たちが、勝手にそれを「新しい」「時代遅れ」というレッテルをはって語っている事自体はひどく滑稽に見えます。
なぜそういうことが起こるのかと言えば、これは感情論と信仰の話だからです。現実に対するフラストレーションの逃げ先として「新しい神に救いを求めている」ということ。対立構造は信仰の対立なのですから、すなわち解決することはないし、こういう話に加わってはいけないのです。

わかりやすさに潜む断崖絶壁

絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、
おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう

銀河英雄伝説より ヤン・ウェンリー曰く

それでも対立構造、しかも単なる手法の優劣だけに話を狭めて話すのは、極めて単純に「そのほうがわかりやすいから」です。人間、あまり複雑な話よりも簡単に結論がでそうな話に飛びつくものです。

戦争はどちらかが悪いほうがわかりやすいし、自分の不幸は誰かのせいであったほうが納得できるし、あいつの幸せだから自分が不幸なのだ、と考えたほうがわかりやすいのです。

ですが、そういうわかりやすさが2つ間にあるグラデーションを消失させ、深い深い断崖を生み出します。

本来は2つは相対する全く違うことではなく、あるものの二面性の話であり、戦闘、開発、マネジメント、思考(推論)、それらの決定プロセスの違いでしかありません。

エフェクチュエーションの提唱者であるサラス・サラスバシー氏も、論文のなかでこのように指摘しているとされます。

コーゼーション的推論とエフェクチュエーション的推論は、
常に逆方向に作用するわけではなく、むしろ両者は補完的に機能する。

エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」 第七章より

このことは、例として、素材に応じた刃物の使い分け、移動における手段の使い分けで考えてみるとわかりやすいと思います。

マグロ包丁で手紙を開封することはできますが適しているとは思えません。
同様に徒歩三分のコンビニに向かうのに飛行機は適しません。
そういう話と同様、やり方の違いは目的、状況、環境などによって適切に選択し使いこなすことが必要ということです。対立ではないのです。

対立の先にあるのは「よろしい、ならば戦争だ」です。
そうじゃないんだよ!という話でした。

それじゃ、また👋

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