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変化における創造的怠惰のススメ。あるいはそれは自由自在な人生の法則。

あけましておめでとうございます!
プロ雑用です。
2022年になりましたね。もう5日だけどね!!

加齢とともに、年月が爆速になってる気がしますねー。
これは<ジャネーの法則>というものらしいです。この法則は、自分の人生における「1年」の比率が加齢によって小さくなるため、体感として1年が短く時間が早く過ぎていると感じられるようになるというものだそうです。科学的に立証されているわけではないようですが、なんとなくわかります。
一方、心理学では、これを「時間評価」の問題と捉えて、加齢によって代謝の衰えたことで、体内時計の感覚に影響をあたえてると考えられているそうです。うかうかしてるとマジですぐ死にますね…

なんていうウンチクを新年そうそう語ってるわけですが、それは横に置いといて、去年のかんたんな振り返りと、今年なにしようかなーとか、年末年始に考えたことをアウトプットしたいと思います。
ものすごくわかりにくい文になってるので途中でヤメてもいいですよ!😂

人生は選択の積み重なり

私は人生、というか生活において
「我は我が素を行う」
「くるもの拒まず、去るもの追わず」
「人間万事塞翁が馬」
の三つのスタンスを常に心がけているのですが、これは一言で表すと
人生は、なるようにしかならん
ということです。

また可能な限り、重く大きな決断をしない、ということでもあります。
それは、決断を回避するということではなく、重くて大きい決断をしなくても良いよう、どうにでもなるように予め「覚悟」する、ということです。

私なりの表現では、覚悟している状態というのは「水」を目指すものです。どういうことか?

覚悟というのは「さとり・さとる」と書きます。
仏教では”迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得した状態”を悟りと定義しているのですが、一般的には”物事の真の意味を知る”という意味です。つまり、理解する、という意味です。
物事を理解するためには「一旦全部受け入れる」ことが必要です。拒絶から理解は生まれません。全てを受け入れることができる物体として、水のイメージが私の中にはあります。魚心あれば水心、です。

この水心の覚悟は、ある意味では「諦観」でもあります。
諦観とは、終わりではなく、執着を手放す、ということです。

スヌーピーのセリフにこんなのがあります。

You play with the cards you’re dealt …whatever that means.
(配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ)

覚悟と諦観を、端的に表した見事なセリフですね。

人生というのは、いくつもの選択があり、どういう形であれそれは選択によって形作られます。人間、いつでも能動的に選択しているわけでありません。受動的な選択もたくさんあります。自動的になされる選択はほとんどが受動的なものでしょう。
そして能動的な選択は、そうでない選択よりも意思のエネルギーをたくさん消費します。人の意思エネルギーは有限です。能動的な選択をたくさんするほど、エネルギーは消費され、本当に大きな決断が必要な時に、意思決定ができなくなるかもしれません。

わたしは覚悟と諦観によって、能動的な選択を受動的な選択と同じレベルに引き下げ、さらに重く大きな決断を、日常の選択肢レベルに引き下げることを一つの目標として心の修養を続けています。
昨年は、その修養が一段新しいステージに入ったと実感できる出来事がありました。

不自由と自由自在

去年は、2つのトピックスがありました。
一つは、アソビューの正社員から業務委託に切り替えたこと。
もう一つは、MOVEDで事業責任者になったことです。

アソビューの正社員から業務委託に切り替えた、というのは、端的にいえば退職したということです。引き続きアソビューには関わっているので、対外的にはそうは見えませんが、正社員とは違う立場となりました。
転職という行為自体は、もはやそれほど大きな選択ではないのですが、アソビューは好きなサービスだし思い入れもあるので、完全に関わりが無くなるという選択肢は、最初から捨てていました。
ベストでは有りませんが、限りなくベストに近いモアベターな選択をしたと考えています。
一応、ベストな選択の提案も行いましたがそれが受け入れられる可能性は限りなく小さいと予測していたので、ほとんど捨て案。つまり、私は自分の思うがままの結果を得ることができました。ごく自然に。

もう一つの事業責任者も、ごく自然な流れでの選択でした。
MOVEDは昨年の夏に大きな転換期を迎えていました。詳しくは伏せますが、変化しなくては行けないタイミングでした。その中で、各々のメンバーの業務における責任分掌の曖昧さが顕著に現れてきました。ほっとくと良い結果には繋がらないと確信したので、責任をはっきりさせる提案を行いました。
その中で自分の役割として、事業責任を取る、ということを決断しました。
特に気負いはなく、メンバーの適性を考えた時、今のメンバーでは自分がそれをするのが適任だと考えただけです。なので、ここでもほとんど選択らしい選択はしておらず、自分の思うがままの結果です。

不自由とは何かと考えれば、自分の思い通りにならない、ということですが、ある視点から考えれば「不自由とは、執着を手放せず、物事を理解していない状態」と言えます。
つまりそれは「覚悟せず、諦観もできず」ということです。

怠惰な選択と、嗜好による自動化

私は、よく言っているのですが、特にやりたいことはありません。
極めて自己中心的に言えば、何もしたくない人です。
別に人前に立ちたいわけでも、責任ある地位につきたいわけでも、大金持ちになりたわけでもないのです。それらが選択できるタイミングで、自分がやるのが今はよい、という選択が目の前に転がって来たものを、その時の力量を考えて取る、というだけです。

ところで、世の中にある「自分のやりたいこと」というのは、果たして本当にそうなのかなと私は疑っています。
”思考は類推”であるという説がありまして、そこから考えると、思考というのは過去の選択が積み重なった”嗜好”なのではないかとも思うわけです。
つまり、やりたいこと、というのは選択の先に現れる嗜好ということです。

在るが儘を受け入れる、という覚悟と諦観は、恐怖と不安の棄却でもあります。恐怖と不安とは何かと問われれば、それは「知らぬ」ということです。
覚悟と諦観を持つためには、知れることを知り、知らぬことを知る、足らぬことを知る。それは創造性の基盤となります。
覚悟と諦観をもつことは創造的な怠惰であり、創造的怠惰による選択というのは、つまり自由のことです。

また、個人の選択の積み重ねは嗜好となり、嗜好が思考化されることで、選択を自動化することができるようになります。自動化された選択の積み重ねとは、つまり自在のことです。

ある意味で、私の人生の目標は何事も無く過ごすこと。
しかし環境も自己も、時間とともに変化します。それは選択の積み重ねの結果であって、変化を拒むことはできません。
変化は当然のものであり、変化することが自然なのであり、変化こそが不変的な事実なのですね。変化は、人間の意思に関係なく訪れます。拒否することも避けることも逃げることもできません。
であれば、受け入れるしかない。そのための覚悟と諦観であり、それが自由自在です。

老いる自分、学べない自分、頑張れない自分、思い通りにならない他人、うまくいかない仕事、結果の出ないプロセス。全部そうなのだから仕方がないのです。それを拒否したところで、何かが変わるわけではない。

世の中がどうであれ、他人が何であれ、世界がどうであれ、我は我。
なるようになれば、あるようにあり、なすようになせる。

これが今の私に言語化できる精一杯のアウトプットです。
こんなことを考えながら昨年を過ごしました(もちろんこれは思考の結果であって思考した内容そのものではないのですが)。

と、いうわけで年のはじめから、こんなわけのわからん文章に、お付き合いいただきありがとうございました。
そんな心優しいあなたが自由自在な一年を送れますように…

ではまた。

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