SNSで発生するのはTrustではなくFaithであり、それはInteractionではなくEntertainmentなんだよね。
プロ雑用です!
今日は人間関係が結局大事だよねっていう話。
自称コミュ障はたくさん居るが
世の中見渡すと、自称コミュ障は大勢います。プレゼンベタ、人まで喋るのは苦手です、という人も同じようにたくさんいます。程度の違いこそあれ、だいぶコミュニケーション強者っぽい人でも、自称コミュ障という人はいます。
これはどういうことなんだろうか?と考えたとき、一つ疑問が浮かびます。「そもそもコミュニケーションってなんだ?」
人と話すのが苦手、大勢の前で話すのが苦手、自分の考えを伝えるのが苦手、と感じている人は、だいたい自称コミュ障ですが、これって本当にコミュニケーションの話なんですかね?伝えるというポイントは、コミュニケーションの一部分でしか無いと考えます。
コミュニケーションの語源
言葉の定義がふわふわしているときは、語源をあたれ、というのが私の考えですが、コミュニケーションについても語源を探ってみると、いろいろ出てきます。
ラテン語の「コムニカチオ(分かち合うこと・共有すること)」、あるいは古典ギリシャ語の「コイノーイア κοινωνία(仕事上の協力関係、結婚生活上の夫婦の協力、ゼウスのような神との精神的関係、友人との仲間関係、共同体・社会)」などが出てきます。これらは更に「コムニオ(交わり)」を語源としています。同じ言葉を語源とする現代語には、カンパニー、コミュニティがあります。
ここから推察すると、自分と他者の1:1の関係から、1:nに至るまでの交わり・交流を示してます。そう考えれば、コミュニケーションは本質的に「他者との関係性」と理解するのがよさそうです。
コミュニケーションは関係性なくして成り立たない
SNSやLINEを始め、現在のインターネット社会は、テキストメッセージが他者との関わりの中心を担っています。そのため、言葉や考えをテキストにして相手に伝えること、それも上手に伝えることがコミュニケーションと捉えられているきらいがありますが、語源をたどると、どうやらこれは大きな勘違いなのではと考えられます。
言葉もテキストも、コミュニケーションのための手段の一つでしかない、という話で、人間は本来、言語だけでなく、表情や態度など五感を総動員して、相手と意思疎通を図っています。交流を繰り返すことで関係性を深めていくこと、その過程そのものがコミュニケーションなのです。
そう考えれば、様々なSNS上のすれ違いや軋轢、炎上がなぜ発生するのかが、よく理解できます。SNSはコミュニケーション手段の一部分、それもかなり限定的なもので、SNS上でコミュニケーションが成立しているというのは、ほぼ妄想といっても過言ではないでしょう。
いや、そんなことはない、SNS上だけで出会った男女が結婚することもある、というなどの反論はありましょうが、それは確率的にどれくらいなのでしょうか?ハズレ値を持ってきて全体を語るのは、論理的誤謬です。
自分とは関係がない群衆に惑わされないこと
そもそもSNSのフォロワーは自分にとって何なのか?個々人の考えはあるでしょうが、ひとまず私の考えとしては、リアルなつながりがある人以外のフォロワーは、自分とはなんの関わり合いのない群衆です。
袖振り合うも多生の縁、という言葉もありますが、現代日本の都市部に住んでいれば、街行く大勢の人々は、知り合いですらありません。街で友人や親しい知人とばったり出逢えば、会話や挨拶が発生しますが、それ以外では会話はおろか挨拶すらかわさないのが普通です。逆に満員電車の乗り降りで周りの人に挨拶しまくる人がいたら怖すぎると思います(おそらく多くの人もやべーやつ扱いで無視するでしょう)。
このように、リアルでは目に見えずとも他人との間に壁が存在していることを我々は無意識に感じています。ところがインターネット空間になると、この壁が無くなってしまう人が大勢いるようです。
一度どこかで他愛のない会話や挨拶をした人が居たとしても、その人は親友と比べてどの距離感に居るのか?家族、同級生、恋人、知り合い、会社の同僚、取引先…など、冷静に考えれば、それぞれの関係性は、それぞれなりの距離感があるはずです。
信頼はコミュニケーション量の総和から生ずる”関係性の質”
しかしSNSのフォロー・フォロワーになると突然0距離扱いになる。有名人や顔を知っている関係とも気軽に交流ができるという利点もありますが、それはそれとして、あなたがフォローしている人、あるいはあなたをフォローしている人、いずれもそのほとんどが自分とは関係がない人々です。フォロワーは必ずしも自分の味方ではないし、ファンでもなければ、支援者でもありません。単に「見ている人」です。相手にとって自分はいわば檻中の鑑賞動物です。その逆もしかり。一方的に見ているだけだし、一方的に見られているだけなので、そこに関係性などは発生しようがありません。
関係性が生じないのですから、当然その関係は信頼関係には発展しません。
関係性からお互いの信用が生じ、それが積み重なると信頼になりますが、関係性がない中で生じるのは、信用(credit)や信頼(Trust)ではなく、信仰(Faith)です。信仰は対象に対して一方通行ですから、それはコミュニケーションにではありません。信仰は、どこまでいっても自己の問題です。
それにもかかわらず、多くの人がSNSでコミュニケーションをしている「つもり」になっています。テキスト情報はノンバーバル情報が欠落した限定的な伝達手段でしかないのですから、コミュニケーションなど生まれるはずがありません。
自分が他者に対して信仰を持っていたとしても、それに他者が応えてくれるかどうかは、自分の信仰心とは無関係なのです。つまり、SNSでコミュニケーションをしていると勘違いしている人は、そこに相互作用(Interaction)があると思いこんでいますが、どこまで言っても一方通行なのです。SNSは、どこまで極めても、暇つぶしの娯楽(Entertainment)でしかないのです。
顔も知らない他人なんてどうでもよくない?
SNSでの関係は、顔はおろかバックボーンもプロフィースもわかりませんし、知ったことではありません。その程度の、道路で通り過ぎる見ず知らずの他人以下の存在の言う事や意見なんて、何か自分のリアルな人生にほんとうに必要なんですかね?
エンタメとして楽しむのは結構ですが、リアルと勘違いして自己の精神を右往左往するのは、本当に愚かしいんじゃなかろうかと思うわけです。他人の病気をいくら気遣ったところで、その病気が快癒するわけではないのですから(快癒すると思い込むのは信仰の話)、SNS全盛の今の時代だからこそ、他者を無視する力というのは重要なのです。
SNSはEntertainmentなのだから、楽しめないものは無視すれば良いのだけど、コミュニケーションツールだと根本的な勘違いをしているから、感情がムダに揺さぶられるのだと思います。
そもそも、顔もしらん他人なんて、どうでもよくないですか?
今の時代、交流をすべき人間とそうでない人間は、ちゃんと判断すべきであり、あなたが万人の意見に右往左往するのは、そういう力が育っていないからなのではないでしょうか。
ということで、SNS上の他人なんぞクソ喰らえ、という話でした()
それじゃ、また👋
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