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<アトランティック・ストーム>赤軍艦隊

〈大和〉〈武蔵〉の奮迅と”偉大なる敗北”が、世界の海軍関係者へ与えた衝撃は大きかった。しかし同時に「27ノット以上の高速」「16インチ以上の主砲」そしてそのスペックから「排水量45,000t以上」という怪物を建造・保有・整備・運用が可能な国力を備えた国の数は限られた。合衆国と英国、そして国土は荒廃したが能力は残存していたフランスとイタリアは、その地位が保全されていると信じて疑わなかった。

国土が荒廃し、ドイツ撤退時に壊滅的な打撃を加えられたと推測されていたソビエトの造船能力から、大型艦の建造、特に2万トン以上の艦船の建造は不可能だと考えられていた。

諜報部の一部からは、驚異的なスピードとそれに見合った犠牲によって造船能力などの急速な回復が指摘されていたが、首脳部や関係者はそれは欺瞞情報だと信じて疑わなかった。あの伍長との戦いにおいて英国は、植民地人に多大な借りを作っただけでなく、大戦争の後始末と発言力を増した市民や連邦諸国からの突き上げに、対処することで精いっぱいだった。「そのはずはない」見たくないものはとりあえず無視された。

その楽観主義は、現実の光景によって打ち砕かれることとなる。1951年スターリンの威信を示すために、西側の予想を遥かに上回るペースで建造された赤い戦艦<ソビエツキー・ソユーズ>が北海にその姿を現したことは、それらの国々に衝撃となったのは当然のことであった。”演習”と称して赤軍艦隊がデンマーク海峡を通過し、大西洋へ進出、予想より統制された艦隊運動を行い、再び海峡を通りバルト海の奥深くへ消えていったことは、西側ー特に英国に強い衝撃を与えた。
彼らは〈ビスマルク〉による混乱と衝撃の9日間を忘れてなどいなかった。

赤軍艦隊の示威行動は、合衆国よりも英国軍部内に大きなくびきを打ち込むことになった。戦後復興と戦勝国各国と英連邦諸国への膨大なツケの支払いと勝利への代償から経済的にかなり追い詰められ始めた英国は、そうした理由から空母と巡洋艦、駆逐艦による艦隊編成を目指し、緩やかな軍備削減を目指していた一方で、1982年まで”老女”がポーツマス軍港に居続けた理由はそのためである。

戦争の形態が海上から空へ移ろうとも、海上輸送がブリテン島の生命線なのは変わりようがない事実であった。潜水艦の脅威は、伍長との戦争以上に高くなってはいたが、その潜水艦をけん制・排除するための護衛艦隊を排除するために、赤軍が大型水上戦闘艦による襲撃ようなカードが残されているならば、こちらも対応する手段を残しておくしかない。ミサイルの発展と同時に、女王の座を失った老女が、いまだにポーツマスの港で日向ぼっこしていられるのは、そうした理由からだった。

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