「虹獣(コウジュウ)」1章:リルト 7話:誠真(セイシン)
四八亡き後、残された母犬とリルト。リルトは四八が起き上がらず動かない事に当惑しつつも、お腹が減っているからと散らばったご飯を食べながら四八への疑問を感じていた。母犬は直感的に四八の死を感じ取った。と同時にこれからのリルトの事へと想いを馳せた。リルトはまだ独り立ち出来るほど成長してはいない。自分で餌を取る事も憶えていない。そしてなにより、母犬自身も死期が近い事を自ずと感じ取っていた…。
母犬はあるブリーダーの下で産まれ育った。しかしそのブリーダーは悪質な経営をしていた。母犬は生後八ヶ月の頃、人に例えれば十一歳頃より、お金の為の道具とされた。お金の為に無理矢理交尾を強制され、お金の為に妊娠をし、お金の為に出産し、お金の為に…。全て人間のエゴの為に金を生む道具とされ、子供を産む道具とされたのであった。
母犬は狭いケージで育った、不純物を多く含んだ安物のペットフードで育った、散歩に連れて行ってもらえず運動不足で育った。悪質な環境で育った。吠えると棒で突付かれた、経営者の機嫌が悪いと棒で突付かれた、暇潰しに棒で突付かれた。虐待を受けて育った。次第に母犬は人の顔色を神経質なまでに伺うようになっていた。物音一つにも過敏に反応し、どう対応したら自分が生きていけるかを考える日々になっていた。吠えずに大人しくしている、安物のペットフードでも美味しそうに全て残さず食べる、棒で突付かれても人懐こいフリをする、トイレは人が片付け易いように気を遣ってする、片付けてくれない場合は自ら糞を食べ尿を舐め綺麗に保つ…。全ては生きる為に、生き抜く為に、人の思惑通りの自分を演じ続ける事で生存を保とうとした。
母犬が生後八ヶ月に達した頃、母犬は見知らぬ雄犬と対面させられた、人に例えるならば十一歳の時である。発情期を迎えていた母犬は初めての事に戸惑いを強く感じていた。しかし人に迷惑を掛けては生きてはいけないという強い思いから、戸惑いを隠し出血を丁寧に舐め綺麗に保ち人に迷惑を掛けないように細心の注意を払って日々を過ごしていた。だがそれが裏目に出てしまい棒で突付かれてしまった。ブリーダーの人は生産性を上げる為に発情期を迎えたばかりで、まだ体が整っていない雌犬にも交尾をさせて妊娠を促していた。母犬が舐めて綺麗に保っていた事で発情期になった事に気付くのが遅くなり、ブリーダーの人は激怒したのである。その激怒も一時的な発作のようなものであり、間もなく見知らぬ雄犬と対面させられ交尾を促された。発情というものが何だか知らず、交尾についても知らず、ただただ生き抜く事を重視していた母犬は大人しく受動的な態度を取っていた。やがて雄犬に背中から覆い被らされ股間にある性器の部分に太い何かが当たる感触がしたかと思えば、すぐさまそれは母犬の膣内へと侵入してきた。母犬は思わず悲鳴を漏らした…人の機嫌を損ねないように吠えなくなっていた、鳴かなくなっていた母犬が我慢出来ずに悲鳴を漏らした。しかし、すぐさま母犬は正気を保とうとしながら我慢を続けた。この雄犬がしている事も人の思惑なのだろう、逆らったり喚いたりしてしまっては生きていけない。我慢をし続けるしかない。母犬は股間から挿入された異物に酷い違和感や嫌悪感を抱きながらも耐え続けた。初めて覆い被される感触、重さ息苦しさ尊厳を陵辱されたような気持ち。雄犬の狂ったような息使い、頭部や首下に当たる生暖かい気持ち悪く感じる息。股間に挿入される異物、痛みを伴う出血、息苦しい圧迫感。それでも耐える、我慢する…、母犬が学んだ哀しい処世術…。やがて雄犬は果て、母犬の中へと熱い液体を放出するのであった。
やがて母犬は妊娠して子供を出産した。初の子供である。母犬は感情を押し殺す処世術が身に付いていたとはいえ、とても嬉しかった。今まで関わってきた生き物は全てが母犬を支配してくるもの達ばかりであった。でも子供達は違う。母犬が支配を…いや、愛情を持って育む対象である事を誰よりも深く感じ取っていた。
初めての子育て、胸が躍る高揚、唯一の至福、母犬が子育てをしている時は人も雄犬も自分に危害を加えて来なかった。人は度々様子を見に来ていたが、温かく見守ってくれている感じがした。そして、もぞもぞと動きながら自分に甘えてきてくれる子供。自分を心から必要としてくれる存在、その存在が母犬の存在意義を充たしてくれていた。人や雄犬からのように押し付け強制された存在ではない、そう感じられる大切な子供。母犬は子供達が母乳を吸い易いように体の向きを微妙に変えながら、一匹一匹を丁寧に舐めて毛繕いをしてあげていた。
そんな平穏も束の間の事であった。子供が産まれてから一ヶ月ほど経ったであろうか、ある日突然に子供達を取り上げられてしまった。まだ乳離れするかしないかの子供達である。母犬は突然の事に驚き思わず吠えてしまった。しかし、母犬はすぐさま棒で突付かれ以前の支配の記憶をよみがえさせられて吠える事を止めてしまった。幼い年齢の方が人には可愛く写り高値で売れる、母犬が大事に育て生きる喜びを感じた存在も、人にとっては単なる金儲けの道具にしか過ぎないのであった。だが、母犬には人の都合など理解が出来なかった。せっかくの平穏、せっかくの存在意義、生きる為の心の拠り所を失ってしまい母犬は呆然と無気力に陥ってしまった。人の顔色を伺い幾ら尽くそうとも、雄犬からの強引な交尾に我慢しながら幾ら耐えようとも、産まれた子供を心から愛し育んでも、全ては無駄になってしまう事に気付いてしまった。
それからの母犬は機械のような心になってしまった。機械のように人の思惑通りに生きる、機械のように人の思惑通り雄犬と交尾をする、機械のように人の思惑通りに子育てをする。何も期待をしない、望まない、期待をすれば望めば叶わなかった時に反動から心が傷付く、傷付かない為に心が鈍感になっていき諦めの無感情を示す、耐えるという事も我慢をするという事も、もはや母犬には関係の無い感情になっていた。
そんな機械の心のまま何年が過ぎた事だろう、四年ほどであろうか。母犬は生まれてから五年ほどの時を経過していた、人にしたら母犬三十六歳の頃である。その日は朝から少し人達が騒がしくしていた。そんな日もある…機械の心となった母犬は何も感じなかった。やがて人が近付いてきて母犬の入っている檻を開ける、そして母犬に出る事を促したのであった。また雄犬との交尾をさせられるのであろうか?機械の心となった母犬は過去の経験から今後の自分の行動を人の思惑に沿うよう機械的に合わせようとしていた。しかし、母犬は何故かトラックに乗せられ、そのトラックは山へと向かって走り出すのであった。初めての事に戸惑った母犬は、その刺激によって機械の心から動物の心を取り戻しつつあった。これからどこへ行くのであろう?これから何をさせられるのであろう?そんな不安を抱えつつトラックの荷台の隅でうずくまる母犬。着いた場所は人気の無い山中であった、そこで母犬はトラックから降ろされる。そして何の挨拶も無しに人はトラックへと乗り込み、トラックを走らせ母犬を置き去りにするのであった。母犬は捨てられた、散々と虐待を受け、雄犬との交尾を繰り返させられ、金儲けに加担させられる為に子育てをしてきた。そして、子供を産み難くなったら捨てられたのだ。道具として、機械として、金儲けの為として、存在し続けてきた母犬は不要になった道具のようにゴミとして捨てられたのだ。散々利用するだけ利用して利用価値が無くなったら捨てられる。その現実に気付いた母犬は長年抑え消え去っていた感情がよみがえり溢れ出していた。夜の山中に母犬の虚しく哀しい遠吠えが響き渡るのであった。
遠吠えをしながら母犬は考えていた、捨てられた現実に、一匹で生きていかなければいけない現実に…だが逆に考えれば自由だ、とも思った。もう人から虐待を受ける事も無い、雄犬にむりやり交尾をさせられる事も無い、機械的な子育てをする事も無い、全ては自由になったのだ。そう思えた時、母犬は遠吠えを止め悲しくも嬉しい感情が芽生え始めていた。母犬は山中から山のふもとへと走り出した、街中へ行けば食べ物にありつけるはず、母犬は人との暮らしの中で人はまだ食べられる食べ物をゴミとして捨てる事を知っていたから。長い事を狭い檻の中で暮らし運動不足になっていた母犬には走る事が思うよりも肉体に堪えていた、しかし心は軽やかであった、全ての嫌な事からの開放感が母犬を元気付けていた。どれだけ走った事であろう、山のふもとを抜け街中に着き匂いを頼りに早速ゴミを漁ろうとしていた。そのゴミ捨て場の横でダンボールに入った一匹の子供と出逢った、リルトとの出逢いである。
リルトは甘ったるい声で助けを保護者を求めていた、生後二ヶ月くらいであろうか、人に換算すればまだ三歳の幼さである。母犬が匂いを嗅ぐ為に鼻を近付けると、何の警戒心も無くリルトは母犬の鼻先を舐めてきた。舐められた母犬は初めての子育てを思い出し懐かしい記憶に少し酔いしれていた。母犬の事を心から求めてくれる存在、母犬が存在意義を感じられる子供、今は子供を取り上げる人達もいない。母犬は本当の意味で子育てを初めて行えるような期待を抱き始めていた。そして特に重要であったリルト自身が母犬に懐き始めてくれている事。母犬は本当の意味で初の子育てを覚悟した。同時にたまらないほどの喜びを感じていた、自分を必要としてくれる存在がいる事に。こうしてリルトと母犬は、共に行動をするようになっていったのであった。
母犬は四八が遺した餌を全てリルトに食べさせるつもりになっていた。まだ幼いリルトを生かす、本当の意味での初の子育てに最善を尽くしたい、リルトが成人するまで見守りたい…愛し続けたい。最後までの希望が叶わなくても、せめてリルトには生き延びて欲しい、そう願いつつ母犬は空腹に耐えた、我慢をし続けた。幸か不幸か耐える事に我慢する事に慣れていたから、慣らされていたから…。四八亡き後、数日が経ち餌が無くなり始めていた。
母犬の過去を聞かされたリルト。内容を全て理解出来なくても大変だったのだとは理解出来た。母犬がリルトに厳しかったのは過去の経験による母犬の愛の形。人に嫌われたら生きていけないという厳しい現実を体験した母犬の愛の形。愛故の厳しさ、愛故の煩さ、愛故に遺された餌を食べず、愛故に自分の亡骸を食べるように促す母犬…。
「リルト…ママが亡くなったらママを食べなさい…。そしたらママはリルトの中で生きていけるから…。そしてママを食べ尽くす前に餌を自分で取る事を憶えるのですよ…」
「ママはね…まともに子育てをした事がなかったから、リルトに出逢えて幸せでした…。怒ってばかりのママでごめんね…。最後まで子育て出来ずにごめんね…」
「リルト……、生きて…力強く生き抜いて……。リルト……、ありがとう………」
そう言い遺し息絶える母犬。突然の事に戸惑い言葉が出ず呆然としたまま聞いていたリルト。
「マ゛ァーマ゛ァァーーー!!」
「ヴオォ゛ォォーーーー!!」
リルトは言葉にならぬ叫び声を上げていた…。
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