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正しいことって何だろう?(2021年)

僕は良い事も悪い事も多々体験してきて普通が少なく稀有が多い。多くの人より恵まれた部分も多々あれば、多くの人より不幸なアクシデントも多々あった。

勝ち組負け組の言葉は嫌いだし個々に自分が幸せだと思う生き方をすればいいと思うけども、一般的な勝ち組の立場も負け組の立場も体験してきているから、どちらの気持ちも何となく解るつもり。

だから勝ち組の人が日々の苦労や努力で結果を出している事や、不幸なアクシデントがあったり努力の仕方がうまく工夫出来ずに結果が得られ難かったりする気持ちも何となく解るつもり。


リンゴが見世物として並び皮を剥かれ切断されて食われてしまう事や、米が水攻めされ釜茹でされ水死体となって食われてしまう事も時には想い考えてしまう。

暴君だって独裁者だって大量虐殺者だって猟奇殺人鬼だって無差別殺人者だって100%悪とは思えなくもある。虐待やいじめをする人も何かしらの心の傷があったり、成長が足りていないからしてしまっている事が多い。

何かで手助けをしても嫌な想いをする事もある、自分も100%完璧ではない、でも犠牲にもなりたくない。


様々な事へ想いを馳せたり考えを巡らすと、とても心が辛く苦しくなってしまうんだ。そして辛く苦しいから時に冷徹に切り捨てるような発言をして自分を護ろうとする事もある。

勝ち負けや強弱が起きるのは生存競争があるからだと思う。
道端の石を観て、あの石は勝っている!あの石つえぇー!と想う人は少ないと思う。

弱い立場の存在を助ける事はどこまでが正常な範囲なのだろう?例えば人間の弱者を助けていけばその人達が食べる肉や魚や野菜や果物や穀物が必要になる。肉や魚や野菜や果物や穀物は人間よりも弱い立場の存在だ。

遺伝子を紡ぎ続ける視点に於いては人間に食われる肉や魚や野菜や果物や穀物も適者生存をし続けている事になる一方で、人類の先進国では少子化が進み子供を持たない人も増え不適応が起きている。

そもそも殺し合いや食い合いを哀しいと捉えるのは人間の主観なだけであって、地球が新陳代謝を行っているほんの些細な一部分の事なのかも知れない。


なぜ?という疑問が、どうして?という疑問が、どうしろと?という疑問が増えていく。

現状無難と思える3点、最低限の殺生、知足安分、無為自然。それすらも疑問。

正しいことが解らない。正しいことって難しい。


以前に読んでブクマしていた記事を再び読んでみて、想ったり考えたりしました。

「未来食堂・小林せかいさんが向き合う 「正しさ」への葛藤」


旧ブログにて2021年05月31日に記載していたもの

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