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私が澱と葉をやる理由

手に汗握る

澱と葉 藤田にとってこの言葉は比喩ではない。

常にびしょびしょ
まじで常にびしょびしょなのだ。

手をつなぐたび
ああ、この人にとってこの世の中は本当に生きづらいものなんだなと
文字通り手に取って感じられる。

これは完全な私見だが、
楽しいか楽しくないか
やりたいかやりたくないか
得意か苦手か
そういう本人のカテゴリ分けとは関係なく
受け取る情報が彼の情報処理のキャパを超えたとき、
超えた分が水分に変換されて出ているんじゃないかと思うのである。

大好きな本を読んでいるときでさえ、彼は外界からなにかを常に感じ取り、
超えたキャパはわかりやすく水分としてあふれ出る。
(結果本もびしょびしょになる。それをみると情報が物理的に戻ったなーと、循環を感じたりもして面白い。)

人間の脳みそは、 いらない情報は入らないようにできていて
それがとても優秀な機能であると思うのだが、彼にはそれがうまく機能していないようだ。
言われたイヤミも気づけない私からすると、 それはいかに大変な世界だろうか。
そりゃなにかで排出しないとバランスがとれない。

びしょびしょでしょっぱい彼の手は 懸命に生きている証なのだ。

そんな手が唯一さらさらになるのが料理をしているとき。
だから切ったトマトがしょっぱくなったりはしない。

だから私はどうにか、
彼の脳にとっての安らぎを守っていきたいと思うのである。


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