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black midi "Cavalcade"

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イギリス・ロンドン出身のロックバンドによる、約2年ぶりフルレンス2作目。

アーティスト写真を見て「あれ、3人…?」となったが、どうやらギタリストの Matt Kwasniewski-Kelvin はメンタルヘルスの問題により活動休止中で、今回はいくつかの作曲に携わったのみでレコーディングには参加していないのだと。ゆっくり養生してほしい。その代わりというわけでもないが、昨年からサポートとしてツアーに参加しているキーボード奏者 Seth Evans 、サックス奏者 Kaidi Akinnibi がアルバムにも全面参加。それによってジャズあるいはクラシカルの要素が大量注入されたアンサンブルは、もはや当初のポストパンクの領域からすっかり逸脱した様相となっている。ところで情報によると、今作の LP 盤は特定のレコードショップで予約購入すると、特典としてカバー曲をひとつ収録したソノシートがついてくるとのことだが、その楽曲というのが King CrimsonCaptain Beefheart といった往年のアバンギャルドから、PrinceTalking Heads 、果ては Taylor Swift までといった雑多なセレクト。これはファン投票で決定されたものらしいが、まあ Taylor Swift はさておき、その他はバンド自身にとっても重要なリファレンスになっていることは十分考えられるし、この辺にも今作の音楽性を解読するヒントがあるのではないかと思う。

なにせ先行トラック "John L" の時点でもうはちゃめちゃなのだ。ファンク由来の躍動感を分解し、アタックの鋭さを際立たせて無機質に再構成したような強烈なグルーヴ。執拗なまでのキメの嵐、そして時には大胆に演奏を止めて大きな空白を設けたりと、アグレッシブな勢いで聴き手を引っ張るのではなく置いてけぼりにしようとする挑戦心がこれまで以上にありありと発揮されている。さらにはサックスやピアノ、バイオリンの装飾が複雑・突飛といった印象に拍車をかけ、MV でも大々的に打ち出している妄想度全開な、外連味に満ちたハイパーリアルな世界観を思うさま築き上げている。これは先述のカバー対象で言えば、King Crimson を基盤にしつつ Prince のファンク性や Talking Heads の理知的なアート性を加味していった結果、ということになるかもしれない。ただ個人的には…すでにネット上ではあちこちで指摘されていることだが…ド直球で ZAZEN BOYS を連想させる仕上がりなのだ。それで言えば向井秀徳の第一のルーツには Prince が存在しているし、もちろん彼は Talking Heads や Captain Beefheart も通過している。いささか暴論気味ではあるが、 ZAZEN BOYS から Led Zeppelin を抜いて King Crimson にすればこの音になるのではなかろうか。単なる偶然に過ぎない可能性は大いにあるにしろ、ここまで着地点が近似しているのはザゼンファンとしても非常に興味深いものがある。

だが、その勢いは次曲 "Marlene Dietrich" であっさり無かったものとされてしまう。優美なオーケストラルアレンジが施されたボサノバ調。ボーカルも苦み走ったミッドロウでとてもムーディ。落差で目が点になること必至である。また次の "Chondromalacia Patella" では打って変わり、叩きつけるようなディストーションと洒脱なジャズを忙しなく行ったり来たり混ぜ合わせたりする怪曲。"Slow" はテクニカルな手数を詰め込めるだけ詰め込んだ変速マスロック。"Diamond Stuff" はポストクラシカル的な佇まいを見せる音響実験曲。そこからシームレスに繋がる "Dethroned" "Hogwash and Balderdash" では徐々に加速度、激しさ、奇矯さを増していく演奏とオペラ風歌唱の取り合わせが微妙に Mike Patton を彷彿とさせ、クローザー "Ascending Forth" はこれでもかとゴージャスに歌い上げる約10分のバラード大曲。全曲について書いてしまったが、とにもかくにも、アルバム通じて一箇所に収まろうという気がさらさらない、奇怪さに磨きをかけた内容なのだ。

そもそも black midi らしさの最たるものは何かと考えた時に、自分は「流動性」ではないかと思う。あらゆる批評メディアから高評価を獲得していた前作 "Schlagenheim" においても、彼らは言わば便宜的にポストパンクバンドと括られていただけであって、スタイルとしてのポストパンクを再興しようなどという意思よりも、あらゆる技能を駆使しながら常にリズムを、コードを、フレーズを変容させていこうとする落ち着きのなさ、ひたすら聴き手を煙に巻くメタモルフォーゼのスピード感こそがキモだった。そういった流動性がこの "Cavalcade" ではさらにダイナミックな形へと推し進められているわけで、表面的な音楽性こそポストパンクからプログレッシブロックに移行してはいるけれども、実際の核の部分はまったくブレていない、むしろ着実かつ真っ当なステップアップを踏んでいるとも言える。しかも、何なら前作がちょっとした清流に思えるほど、今回の流動具合はマグマのごとくギトギトである。激しいパートと穏やかなパートの対比は一層極端になり、音数も増え、やりすぎっぷりが転じてコミカルにも映るほどだ。この野心と刺激に満ち満ちた流動体が数年後にはどのように形を変えているのか、もうすでに次作が楽しみになっている。

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