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syrup16g "Les Misé blue"

Nov 23, 2022 / DAIZAWA

東京出身のロックバンドによる、5年ぶりフルレンス11作目。

「鬱ロック」というジャンルがある。いつどこで誰が提唱したものだか知らないが、日本のロックファンの間ではそれなりに認知されていて、かく言う自分もこの度の syrup16g の新譜を聴いて、「うむー…さすが鬱ロックの元祖だな…」といった感想が素朴に浮かび、いつの間にか自分の中に鬱ロックなる概念がインストールされていることにいささか驚いてしまった。試しに検索してみると Wikipedia のページまで出来上がっていてさらに驚いた。まあそれらしい解説が載っているのだが、主なバンドに黒夢やら GRAPEVINE やら THE NOVEMBERS やらが挙げられていて、鬱という言葉も随分雑に扱われるようになったもんだと乾いた笑いが込み上げてきた。そのうち鬱ロックに定義されているバンドに憧れた若者が、自分も鬱ロックバンドを目指す!となり、鬱ロックであることに誇りを持って鬱ロックシーンの拡大発展に貢献しようと志したりするんだろうか。本当に勘弁してほしい。

自分も性格的に、鬱を発端とする自虐的、自罰的、閉塞的な表現にはついつい惹かれてしまいがちで、周期的にそういった類の作品を欲してしまうことがあるのだが、鬱的な表現は諸刃の剣なのだ。聴き手にとっても演者にとっても。鬱性のインプット/アウトプットがある種のセーフティーネットとして機能することもあるが、ある種のトリガーとして機能することももちろんある。自分にとって syrup16g と神聖かまってちゃんは完全にソレで、聴いている間は何だか即効性の麻酔を打たれている感覚になるし、同時に心の奥の方にある錆び付いた扉が開いてしまうような、寒気にも似た感覚に襲われることもある。もっと過敏に反応してしまう人もきっといるだろう。鬱を元とする表現はその性質ゆえに中毒的な魅力をまといがちだが、そればかりを追い求めてしまうと、最後に待ち受けているのは虚無、破滅だ。取扱いには注意が必要だし、本当ならこういった音楽は存在しない方が良かったのではないかという気にすらなる。

5年ぶり。少し忘れかけていた頃に、ひょっこりと、syrup16g の新譜はやってきた。

音楽的には目新しさは全くない。純度100%の syrup16g 、純度100%のオルタナティブロックである。敢えて言えば半音上がり下がりする奇妙なコード進行があちこちで目立つくらいだろうか。それくらいのもんだ。ベース、ドラム、何本か重ねられたギター、いつもの上擦ったボーカル。構成要素はただそれだけ。ガリッと歪んでいたりシューゲイザーっぽくなったり、何ならミドルテンポのシェイクビートだって臆面もなくやってのけてしまう。今時こんな90年代丸出しのシェイクビートやるバンド他におるか?それでオープナー "I Will Come (before new dawn)" の歌詞では早々に「変わっていった人を眺め/変われないじぶんを知った」と来る。これを自分の持ち味に対するプライドと取るか、変化することを諦めてしまった自虐と取るか…どちらとも言い切れない。この「言い切れなさ」が相変わらず絶妙だ。彼らは…と言うかソングライター五十嵐隆はいつもそうだが、落ち切っているのか浮上しているのか、やる気が湧いてきたのかそうでないのか、生きたいのか死にたいのか、はっきりとは答えを出さない。答えを出して楽曲がドラマチックに高揚することを良しとしない。曖昧なまま、曖昧な領域を切り取り続けている。今作もまさしくそう。

情報によれば、昨年の東京ガーデンシアター公演の本編は全て未発表の楽曲のみで占められており、その時点で今作の収録曲も演奏されていたらしい。十分な時間をかけて練り込まれたことがよく分かる。今作 "Les Misé blue" は復活後の syrup16g の中では確実に一番のクオリティだと思う。先述した通り目新しさはないし、鮮烈なアッパー曲というのもないけども、切れ味はいつにも増して鋭い。分厚いディストーションに地を割って吹き出るような力強さを感じる "I Will Come~" から、甘いクリーントーンが心地良く靡く "明かりを灯せ" 、軽やかなポップさが映える "Everything With You" と、粒立ちの良い楽曲ばかりが互いの個性を生かし合う形で周到に配列されている。のだが、その力強さ/心地良さ/ポップさはいずれも歌詞によって印象を大きく捻じ曲げられている。

自尊感情は失せ
ためらい傷は昨日のまま
成長できない大人は惨めだ

"Everything With You"

独りぼっちでいても
一人きりだと思えない
仲間に入れなくても
この世界を愛していた

"Alone In Lonely"

からかわれたら 痛い
見過ごされるのは 怖い
誰かなんていないのに
お互いしかいないのに

"うつして"

ざっと書き写してみても、その痛々しさに笑ってしまいそうになる。泣きながら。この期に及んで何故そうやって執拗に傷を抉ってくるのだ?激情を吐き出すという風でもない、思わず口の端からポロポロと零れ落ちてしまったかのように、その力なさ故に「それは本当に口に出して良かったのか?」と聴いているこちらが不安になるくらいの切実さを孕んで、失望や喪失感などのマイナスの感情がつらつらと綴られる。力強さはやけっぱちの自棄、心地良さは寄る辺のない存在を甘やかすための麻酔、ポップさは落ちるところまで落ち切った後の空元気。いつもの笑えない言葉遊びも健在だ。何も変わらずに淡々と時計が回っていく、日常という名の甘ったるい地獄。その地獄がどんなものかを五十嵐隆はきっとバンド結成時から理解していたし、これまでにも散々歌ってきたし、今も歌い続けている。目新しさがなくとも切れ味が鈍っていないと感じるのは、やはり彼らの表現がなお一層精緻に、練度を増しているということだろう。それをただ進化と呼んでいいのかはわからないが。

最後のアルバム表題曲 ""Les Misé blue" で急に優しく微笑みかけてくるのも逆に不気味だ。いったい何があったんだ。彼らは曲調を曲調のまま、言葉を言葉のまま聴かせてくれない。ずっと曖昧だ。その曖昧さはあまねく全ての人間に潜むものである。多くの人間の共感を得るのがポップミュージックの必須条件だとしたら、こんなにポップな音楽はない。

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