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C.O.S.A. "Cool Kids"

Jan 12, 2022 / SUMMIT, Inc.

愛知出身のラッパーによる、単独名義のフルレンスとしては約7年ぶり2作目。

2021年に日本のミュージシャンがリリースした新譜で、一番最初に聴いたのは KID FRESINO "20, Stop it." だった。そして今年は C.O.S.A. 。音源やライブでこれまでに何度も、そしてこの "Cool Kids" でも共演している二人。繋がりの強さもここまでくると何だか笑いがこみ上げてくる。ただこの両者、ラッパーとしてのスタイルや音楽性のベクトルは正反対だなと、今作を聴いて改めて思った。KID FRESINO はロックバンド編成で楽曲を制作したり、ヒップホップのジャンル外からもゲストを多数招聘したり、エレクトロニックなトラックにしても実験的な曲構成のものが多いなど、ヒップホップの可能性を押し広げよう、定型を打ち破ろうという気概が、それこそ "20, Stop it." には特にありありと表れていた。対する C.O.S.A. はと言うと、今回は久しぶりのフル作というところでの意気込みもあってか、突飛なことはせず、ヒップホップの本筋をきっちり踏まえ、あえてマナーを遵守し、その上で自分の個性を発揮しようという信念を感じるのだ。

ただ、それはつまり「ステレオタイプの踏襲」かと言われると、少しニュアンスが違う気もする。少なくとも今回のアルバムには過去の焼き直しだとかレトロスペクティブといった印象はない。冒頭 "GZA Intro" の図太く際立ったベース音、その一音目でこめかみに鮮烈な一発を食らった気分になるからだ。プロデューサーは Ramza 。最小限どころか本来必要な音すらも削ぎ落していそうな音数で、それゆえに各音の存在感が際立ち、鼓膜を土足で踏み散らしていくかのごとく早口で捲し立てる C.O.S.A. のラップも含め、凄まじくドスが効いている。言葉とリズム。ヒップホップという音楽を構成する主要素しかここにはないが、その主要素を純化、先鋭化させる手つきに容赦がなく、これはこれでまたヒップホップの最新型だと痛感させられる。個々の音、個々の言葉の全てが力強い。

昨年に先行リリースされている表題曲 "Cool Kids" からはメロウな色味も加わり、C.O.S.A. というラッパー/人間の内面がいよいよ深く掘り下げられていく。インタビューによれば、幼少の頃は他人との接し方が分からず、力ずくで自分の言うことを聞かせてきたという彼。今ではさすがにそういうことはなくなったが、過去の楽曲に「俺は無慈悲なヤツ/愛はあるけど情がないのさ」という歌詞があるように、必要以上に他者に干渉しようとはせず、結局のところ自分の尻を拭えるのは自分だけなのだという、どこか周囲と一線を引く感覚が常にあるようだ。ただ情はなくても愛はある。今の彼は家族を持ち、仲間を持ち、地元の愛知に根差しながら着実に音楽活動を続け、生活をやっている。そのある種アンビバレントな感覚は…理解できると言うといささか傲慢かもしれないが、生活圏内の情景や複雑な感情の隅々までをなるべく取りこぼしのないように綴る歌詞と、柔らかさと鋭さのバランスが絶妙なトラックとの相乗効果により、こちらの胸にも自然に馴染んでくる。

そう、今作に引き込まれたのは歌詞と音、双方の組み合わせの妙によるところが大きい。リズムは正統派のブーンバップだったりダークなトラップだったりするが、いずれにしても先述したように音数はタイトに絞り込まれており、そのぶんビートの一打一打の輪郭がくっきりと浮き彫りになっている。また音の隙間に漂うひんやりとした緊張感も手伝い、総体はスタイリッシュな仕上がりでありながら、聴き心地はズシンと重い。アーバンなジャズテイストで流麗に聴かせる "Blue" や "Jungle" 、90年代~00年代初頭を思わせるゴージャスなテイストが加わった "My Field" などはメロウな上モノでコーティングされてはいるが、曲の骨格を成すビートの質感はやはりシャープで、簡単にリラクシンな方向には向かわない。そのサウンドの中で C.O.S.A. 自身のラップも明確な存在感を放ち、言葉の意味を着実に聴き手に伝えることが第一義、韻は踏むべき時に踏めばいいといった体で、自身の出で立ちから今現在の思い、内に浮かぶ優しさから憂いまで、とにかく彼という存在丸ごとを投げかけてくる。このスタンスもまた、ラップから意味をなるべく排除してトラックと同化させようとしていた KID FRESINO とは正反対だ。一発一発のジャブに芯があり、体に深く突き刺さってくる。

もちろん、今作で重要なのは重さや鋭さのみではなく、あくまでも全体のバランスだ。今作での C.O.S.A. は存在を誇示してはいるが、あからさまに暴力的な素振りはない。その目は近くを見ているようで遠いようでもあり、武骨な中にも常に何処か翳りを感じさせる。様々な出来事、様々な感情が絡み合った上で彼という人間が成り立っているわけで、その複雑さを綴った歌詞にリアリティを持たせるためには、サウンド面においても「柔」と「剛」を上手く両立してニュアンスを深める必要があった。彼は楽曲ごとにその配分を微調整し、なおかつ余計な装飾を徹底的に削ぎ落とすことで、今作を十分に説得力のある内容に仕立てている。また風通しが良いのも大事なエッセンスだ。それは音の組み立て方にしてもそうだし、アティテュードにしても。先にも書いた通り KID FRESINO は一見 C.O.S.A. と真逆のスタンスではあるが、最後を飾る "Mikiura" で涼やかな風のようなラップを披露し、アルバム内でのキーパーソンとしての役割を果たしている。Campanella や JJJ などにしてもそうだ。各自が各自のラップスタイルを持ち、変に歩み寄ったり調子を合わせる風でもなく、けれども同じ盤の中に共存し、互いを認め合った上で曲を紡いでいる。多くの「ひとり」が表層ではないところでうっすらと連帯している、この関係性にもある意味 C.O.S.A. らしさが表れているような気がする。

ここにあるのは C.O.S.A. というひとりの人間の物語でしかなく、聴き手の自分とは関係ない。他人はどこまでいっても他人だ。それでも曲のどこかでシンパシーを覚えるメッセージを掬うことができたならば、それは情ではなかったとしても、愛だと受け取って良いのかもしれない。

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