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Alice Phoebe Lou "Glow"

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南アフリカ・ケープタウン出身のシンガーソングライターによる、2年ぶりフルレンス3作目。

「神は細部に宿る」という言葉がある。まあ語源や由来に関して詳しくは知らないし、もしかすると解釈を誤っているかもしれないが、「細かな部分にこだわってこそ、作品全体の完成度が高まる」ぐらいのざっくりした意味で自分は捉えている。それで、今回取り上げる "Glow" には12の楽曲が収録されているのだが、今作を聴いている間、自分の頭の中には都合12回、この言葉が頭に浮かんでいた。

楽曲自体はジャズ、ブルース、ロック、フォークなどの要素を含んだ歌モノで、弾き語りの曲にしろバンドアンサンブルを引き連れての曲にしろ、メロディもアレンジも至ってシンプル、オーソドックスな作りである。しかしながら、その歌声や演奏を捉えた音作りが楽曲をオーソドックスとは真逆の印象に仕立てている。今作の制作において彼女は、友人でもあるカナダのインディ・フォークロックバンド Loving の David Parry をプロデューサーに起用し、録音はアナログテープ、使用機材は楽器からマイク、アンプに至るまでビンテージで統一と、あえて旧来的な手法にこだわって臨んだのだという。そういったプロセスで生まれたサウンドは、ピッキングのアタック音や弦の軋み、ゴーストノート、また発声する際の舌の掠れ音までもが如実に把握できる、異様なほどの生々しい輪郭が保たれている。

ただ、例えばボーカルは二重にダビングしたりエフェクトで微妙に歪ませたり、または各パートが綺麗に分離した立体的なミックス、そして時には大胆にヒスノイズが介入してくるなどの処理のためか、ひとつひとつの音はひどく生々しいのに臨場感や現実味がないと言うか、まるで具現化した亡霊のような朧気でミステリアスなムードが全体に宿っているのも今作の音作りの特徴だと言える。単純に時代を逆行しているのではなく、かと言って時代に並走するでもなく、「ここではないどこか」のみを目指して作られた、なんともストレンジな聴き心地なのだ。

1曲目 "Only When I" の時点でただならぬものを感じる。イントロはなく、ピアノと歌のみが冒頭からすぐさま切り込んでくるわけだが、どこかハモンドオルガンにも似た歪みとふくよかな厚みが加えられたボーカルは、物憂げで艶めかしく、繊細な声の震えのコンマ1秒までもを聴き手に確かめさせ、自然と没入してしまうほどの存在感をもって響いてくる。その次のアルバム表題曲 "Glow" はさらに強烈だ。甘い音色のエレキギターを鳴らすタッチのひとつひとつが明確に鼓膜へ迫り、間奏では抑えつけていた感情が張り裂けるかのごとく、サイケロック由来のフリーキーなソロプレイが炸裂。やはり奇妙な存在感のある歌声と相まって、とても3分未満とは思えない濃密な聴き応えとなっている。この2曲ですでに深酔いそうになるが、当然ながらその後も凄みは途切れない。音の質感は楽曲ごとに微調整されており、ほとんどシャンソンの域に達した "How to Get Out of Love" では特にアナログらしさが強まって50年代の発掘音源の様相を呈すが、次の "Heavy//Light as Air" では逆にエフェクトなしのクリアで素朴な歌声が唐突に表れるものだから、なんだかフィルムノワールの登場人物がスクリーンを抜け出して眼前に現出したかのような錯覚に陥る。楽曲、演奏、音響の3要素が織り成す魔術に終始翻弄されっぱなしの状態となるのだ。

第2のリードトラック "Dirty Mouth" はアルバムの中では少し異色で、ジャングリーなギターストロークで軽快に疾走する80年代風ネオアコポップ。正直ここでの曲の並びの中では浮いている気がしなくもない。ただ全身を大きく振り回して開放的な表情を見せる MV での彼女を見ていると、決して彼女がレトロスペクティブな感傷にばかり身を寄せて落ち着き払っているわけではなく、複雑で曖昧なエモーションをどうにか形にして提示するため、楽曲ごとに試行錯誤を繰り返しながらダイナミックに気を吐き続けていることがわかる。この "Dirty Mouth" に限らず、内省的で静かな曲調であっても、音の作り込みが静けさをそのまま静かなものとさせず、何ならむしろ衝動的なダイナミズムすらも感じさせるのである。クローザーの "Lovesick" なんかにしても、歌詞だけを読めばロマンチックで微笑ましい印象まであるくらいなのが、そこに彼女が伴奏をつけて歌うとなぜか背筋に冷気が走る。胸にサクリと刺さってくるナイフのような鋭さがあるし、言葉の背後からは強烈な死の匂いが漂ってくる。そんな気がしてならない。

このアルバムは過去の作品とは違い、今まで意図的に避けてきた "愛情" というテーマをあえて大々的に取り上げ、彼女自身の内面をできる限り明け透けにさらして見せた内容なのだという。ほぼすべてがラブソングであり、出会い、情熱、傷心、離別までを克明に記すため、自分自身の感情と真っ向から対峙したのだと。そうした内面の発露はすなわち生を充足、全うしようということに繋がるかと思うが、衝動的、官能的に生を突き詰めれば突き詰めるほど、生が永遠ではないことを否応なしに思い出させられる。死の影が一層濃さを増して付きまとってくる。この業の深さがどの楽曲からも痛烈に感じられるのは、明らかに彼女の声の使い方、そして音響の使い方による部分が大きいだろう。微細な揺れ、微細な歪み、微細な伸びから微細な減衰。それら全ての音のニュアンスに確かな意味が存在する。皮膚の冷たさからささやかな脈動まで伝わってきそうな肉感的な音の端々から、聴き手の自分は表裏一体の生と死を想起する。これを「神は細部に宿る」と言わずして何と言おうか。

自分にはこれ以上はうまく表現できない。とにかく、あまりにも人間的な歌の数々に恐れおののくばかりである。


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