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随想 1

 不快な相手にどう対処すればいいのだろうか。人を否定的に扱うことしかしない人は何処にも少なからずいる。そういう人は、自尊心の低い人である。自尊心の低い人が、人の自尊心を傷つけるのだ。なぜなら自尊心が低いが為に、だれもが自分を大切していることを知ろうともしないからである。自尊心の低さは、知ろうとしないことから生まれる。

 非常に貧しい生き方なのだが、おそらく、その人もそのようにしか人から扱われて来なかったのだろう。尊重され、大切にしてもらった経験がないのだ。パラハラで育った人は、パラハラしかできないのである。
 
 自尊心とは、自分を大切にすることである。自分を大切にするとは、まず自分を犠牲にしない、ということである。自分に嘘をつかず、自分が不快に感じることはせずに、自分の心や体を快適な状態にしていくことである。自分を誰かの言葉で解釈せず、決めつけず、分けることなく、あるがままに受け入れ、理解し、そして尊重することである。そのようにして、自己を理解したものだけが、自尊心を感得できるのである。

 不快な相手との関係を考えてみる。相手が自分にとって不快な存在だから不快なのは自明である。しかし、その相手に対して不快に感じる何かが自分の内にあることも確かだろう。実際に、その人に対して、不快に感じない人も他にいるのだから。同じ映画を観ても、人が違えば、その感想が異なるように、人それぞれ感性が違うのだ。そして、その感性は、それまでの人生の経験の記憶の差異によって異なっていく。

 その人を不快に感じる原因が自分にはある。だがおおかたの人はそのようにはとらえない。あくまでも原因は相手の側にあって、自分には無いのである。一方的に毛嫌いし、否定し、ときに憎しみや怒りすら覚える。そうして不快さをさらに助長させて、自分の自尊心を低下させてしまい、その相手と同じように自尊心の低い存在に成り下がってしまうのである。

 こうして自分自身の手で自分の自尊心を傷つけているにもかかわらず、人はいつまでもしつこく相手が悪いんだと思い込むだろう。相手に執着し、相手を時に心の中で罵倒する。叩きのめし、殺すこともあるだろう。想像の中で。そうしてますます不快さが身体の肌理の中に浸透していってしまい、どうしても拭い消せなくなる。苦しみ、病んでいく。

 その人を不快に感じる原因は自分にもある。自分の何が、その人を不快にさせるのか。相手の愚かな暴力性が、不条理さが、嫌らしさがそうさせるのは、もうわかった。あとは、自分にある。その不快さを心に抱きながら、どうにか断捨離しようとつとめる。そういうとき、よく見かけるのが、買い物、酒、煙草、SEXのおきまりの流れだ。束の間のドーパミン症候群に陥ってしまう。酒は便利なもので、本当に忘れさせてくれる。他の何処かに連れて行ってくれる。しかし、自分が自分でいることから人は逃れられない。それが事実だ。

 不快さに抵抗しているかぎり不快なままだ。自分にとって相手が不快である以上に、自分が自分でいることにすら不快になっていく。ことの問題は、「始点」にある。不快から始めるから不快なのだ。

 朝をどう過ごすかで、その日が決まるというが、それと同じように、どのような気持ちで事を始めるかで、その事の成り行きは決まってしまう。相手を問題にしない。また自分の不快な部分も問題にしない。相手や自分に対して、どのようにアプローチするのか、始めるのか、何を組み合わせていくのか、その関係づけが問題なのだ。不快なのは仕方がない。しかし、その不快さに不快な言葉を費やしたり、へやに解釈して、その理由をこねくりまわしても、不快なだけである。

 始まりは常に自分にある。どう反応するかは、自分次第だと肚に据えることである。その人自身が不快なのも、不快に感じる部分が自分にあることも仕方がない。その不快さを捨て断ち、そこから離れ、いかに心機一転、自分自身の快から始めれるか、である。

 明晰の人、スピノザは、次のように語っている。私たちが情念に囚われたとき、つまり怒りや悲しみに囚われたとき、おおかたの人は、その情念を意志によって克服しようとする。だがしかし、スピノザは、そうやって意志や冷静な理性によって情念や感情の揺れ動きを克服することはできない、と言う。ただ、怒りや悲しみに囚われたとき、なぜ自分は怒っているのか悲しんでいるのかを考えることはできるだろう。もちろん、その怒りや悲しみの原因を完全に突き止めたとしても、怒りや悲しみという現象を永遠に消し去ることはできない。すべての現象は組み合わせの結果なのだから。
 
 怒りが発生する組み合わせが起きれば、それは怒りとして生じる。しかし、それでも、なぜ怒るのか、なぜ悲しいのかを考えているあいだは、すくなくとも、その感情の情念からは自由でいられる。むろん、その原因を完全に知ることはできないし、それを超えていくこともできない。しかし、その原因を知ろうとしているあいだは、感情の情念からは自由になれるはずだ。

 人間は自然(身体・心)の条件を超えることはできない。自由意志など存在しようがないのだ。もしそれを否定するのなら、別の情念にとって替わるだけで、情念に囚われ続けることには変わりない。かりに信念を抱いたとしても、これももうひとつの情念でしかない。あるいは妄想である。不快に対しては別の不快がつきまとうように、情念に対しても別の情念がとって替わるだけである。私たちが自分の自由だといっている自由意志とは、そのことを知らない妄想にほかならない。下手な言い方をすると、ないものねだり、である。ないものをあたかもあるかのように追い求めても、無いもは無いのである。妄想は無意味さへの架け橋である。

 ジャーナリングは、情念から束の間の自由をもたらしてくれるだろう。今囚われている情念を書き出していくことで、束の間だが牢屋から解放される。断捨離とは、そのような行為である。不快で、不適切で、不要な物事を捨て断ち、そこから離れることで、ある意味、エポケーを作り出し、そこに快で適切で必要な物事に入れ替えていくこと、すなわち新陳代謝をしていくことである。
 
 私たちが情念に対してできることはこれしかない。不快な相手を妄想的に痛めつけたところで、さらに不快になるだけだ。何故なら、不快さは消えないから。しかし、その原因を自分の内にも見出そうとしているあいだは、そこから解放される。そして一回、そこから離れたときに、自分にとって快で適切で必要なものはなにか、自分にとって大切なことはなにか。自分を大切にする方法は何かを知ろうとすること、それが知性である。人は知性で変わることができる。心機一転、新陳代謝を行うことができるのだ。その意味で、変わることができないということは、知性がないということになる。知性は、特別なことではない。だれでも知性を働かすことはできるし、そのことで快への一つのパターンを見出すこともできる。もちろん、自分がどうしたら不快になるのか、そのパターンも知ることができるだろう。このパターンが、情報である。

 自分を大切にする方法を身につけていくこと。その方法が、断捨離、新陳代謝である。実際に、新陳代謝することがホメオスタシスであり、生きることである。何も不思議なことはない。ごく自然な行為であり、そうしなければ人は生きてはいけないのだから、そうすればいいのである。新陳代謝をすること、それが生命の働きであり、生き方である。

 デッドストックと保湿。新陳代謝をして、自分を保湿して潤いを持たせること。それが美肌の基本的な方法である。とにかく自分を気分よくさせることが大切で、決して不快さに囚われている状態を意志や酒や買い物で克服しようなんて考えないことだ。とにかくジャーナリングで排泄して、スッキリして、落ち着いて、それから心機一転、快で適切で必要なことに自分を向け、歩き出すこと。快から始めること。今に快を感得していくこと。不快が不快さを呼び込むのと同様に、快が快活さを呼び込むのである。幸福は、幸福な状態からしか幸福にならないのだから。


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