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ボキャブラリーを増やす#1



プチエッセイ「芳薫」


  パン屋の匂いが好きだ。前を通ると、どうしても吸い寄せられてしまう。その日も私はカモになり、焼きたてと印字されたカードが差し込まれたコーナーで腰をかがめていた。



   店内にハーモニカの軽快なメロディが響く中、一組のカップルが席でじゃれている。実に微笑ましい。なんて思える余裕はある訳もなく、薄っぺらい苛立ちが湧く。せっかくの幸せが台無しになってはいけないので、カップルなんて視界にも入らない奥の席を目指す。奥、奥。ひたすら一番奥の席を目指して歩く。見事に空席。隣は老婦人。それも含めて、ベストだ。クロワッサンを一口だけ頬張り、コーヒーを一口だけ飲む。この時間が長く続くための努力は惜しまない。



  二十分ほどかけて幸せを噛み締め、同時に溜まっていた課題も全て終わらせた達成感にも浸り、これ以上無い上機嫌でパン屋を後にしようとしたその時、感じてしまった。その邪悪なオーラを。あの男女がまだじゃれていたのだ。あれから一時間半、いや二時間経っていたかもしれない。振り切れていた幸福感ゲージはもう一度振り切れた。僕があの二人に勝っていたのは、時間の使い方くらいだろう。それさえも負けているのかもしれない。



  以降パン屋の匂いは、「好きか嫌いかで言うと好き寄り」だ。

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