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近頃はよく言葉の問題について悩んでいる

たとえば、この歳になって(三十歳)将来の夢は何ですかと尋ねられて即座に回答できる人はどのように言葉と向き合っているのだろう。

僕は正直に言って答えることができない。そのような悲観的な人間は軽度の社会不適合者なのだろうか。明白で、人々が魅せられるような目標を実現することを信じて疑わない断固とした口調で言い切らなければいけないのだろうか。つい最近のバレーやラグビー日本代表の面々が掲げていた目標というのはそれほどに単純なものだったのだろうか。大会が始まる前に、彼らの言葉を本気で信じていた人はどれくらいいるのか。彼ら自身もその目標を夢として語っていたのだろうか。

こういう問題と向き合うおうとするとき僕は曖昧さの中に逃げ込みたくなるし、もし本当に向き合う必要があるのであれば、それは相応の時間がかかるような気がしている。さらに悪いことに、どう向き合って良いかすら分からないので、こうして文章に起こすことで自分自身と腹を割った対話が始まらないものかと期待している。

期待している、とスマホのキーボードを打ちながら正にその瞬間、そんなことできるわけないだろうと音量のない内なる声が響きもせず反芻する。

残念ながら、もし僕が脳内で答えを出そうとしているならばその試みは必ず失敗するだろう。たとえいかにも重要なアイディアを書き留めるために購入したような薄い革張り表紙のノートに書き起こしたとしても、やはり失敗する。だから僕の外側にヒントを見出す。

言葉の力はすさまじい。自らの行動をある時点で表現された言葉に方向づけて、進んで支配を受けるようにすることもできるだろう。それをある時は、強靭な意志の力というし。又ある時は強迫観念と言ったりもする。二者の違いは、単に暴力性の程度の問題のようにも思われる。

よくある状況のよくある場面では、行動の曖昧さを排して他人に未来を指し示し、約束を交わすことでしか前進できないこともある。もしあなたが前進しているのならば、よくも悪くも言葉の力に拘束されているだろう。

こういったことは言葉のネガティヴな側面ですらない。ただ単に与えられた状況を言葉が制圧したに過ぎない。

行動を言葉に制圧させることの方が日常にとって良い処方箋であるのは分かっていながら、なぜ僕が馬鹿みたいに歯向かうのかということをやはり誰かに知らせておきたいとも思うので続ける。

言葉がときに人を苦しめるということについて。誰かの言葉、それが自分自身の言葉であることもあるだろうが、それらは僕らを現実に起きていることから目を逸らせ、頭の中だけにしかないはずの概念に着目させ、事実を観念に隷属させることがある。

noteをやり始めると同じくらいに、ウォルター・ベンヤミンという思想家の文章を読み返した。大学2年生の頃に、授業で取り上げられた際に短編集を文庫で買い、全文を読み通して好きになった。言語そのものについて書かれている文章などは難解で、どうやったってうまく人に説明することができないので、当時どうしてベンヤミンが好きなのかを共有できずにいた。

改めて読み返しても、言い回しが独特で抽象的な概念を多用する。とても人に勧められる作家ではない。にも関わらず触れたくなるのは、どの断片を通しても伝わってくるベンヤミンの言葉への向き合い方が理由である。

戦間期に多くを記し、ユダヤ人であるがためにナチスに追われて自殺した。

彼から見て、当時ドイツが狂っていく様子、もっと言えば世界全体が戦争と暴力の熱に浮かされていく様が、人々が言葉の魔力、神話的な力に翻弄され取り憑かれていくプロセスと同じであった。ということが、どの文を切り取っても伝わってくる。

言葉が人々を破滅的な程度まで翻弄することができるということに極めて自覚的であった作家として、僕はベンヤミンの言葉を信頼している。

僕の言葉に対する態度は、従ってかなり捻くれており、額面通りという素直さを持ち合わせていない。周りくどい。

でもその周りくどさと向き合ってみて、将来の夢は何と聞かれたら、こう答えようと思うに至る。

言葉が人を自由にするような方法で言葉を使う仕事をすること。その仕事を通して、世界が少しでも穏やかで寛容な空気を漂わせ、僕らが自由を感じ取れるようにすること。

格好つけすぎなのだろうが、割と素直な気持ちのまま言えたので、今日はここまで。


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