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お母さんへの手紙

文章にするのは苦手だけど、ここでは私の思い出を書き綴ろうと思います。

2013年に書き綴ったものを記録として残します。

だいぶ前「母への手紙」の投稿で新聞に掲載されたことがある

私の場合、『お母さん』とは
祖母のことを意味する

実の母は『ママ』

何だかな~(笑)

私の中のお母さんは
教育の母だったかもしれない

実の母『ママ』が聴覚障害者だったから

私は3歳の時から電話や生活のあらゆる通訳を始めている

両親とも聴覚障害者だから当たり前だと思っていた

最近では子供を通訳代りにするのはと言われてるけど昔は違った

お母さんは決して褒めてくれる人ではなかった

スゴく厳しくて
特に言葉遣いにはうるさかった

戦争を経験したお母さんはろくに学校を出ていないと言いながら独学で英語を習得してる

お母さんの再婚相手はアメリカ人のお父さん(おじいちゃん)

お父さんとの会話は英語だった

お母さんは気性が荒くて負けん気の強い人だった

ママも気が強いから2人揃うとケンカばかり

そんな2人の姿にウンザリすることもあった

20歳過ぎてお母さんの喘息がひどくなって弱っていった

私は仕事を理由にお母さんに会いにいかなくなった

正直、お説教は嫌だったから逃げていた

そのうち一本の電話が入った

お母さんが気管支閉鎖で病院へ運ばれたと…

慌てて病院へ駆けつけた時はたくさんの管につながられたお母さんの姿

お父さんはボーゼンと立ち尽くし

叔父の2人は泣き崩れてる

後から来たママは必ず生き返らせたい

それぞれの想いが交差する中で私は涙一つ零れなかった

医師の説明など受け家族で話し合い、お母さんをもう休ませよう

そう決めて…

お母さんに「ごめんね」と伝えると意識がないお母さんの目からは涙からツーと流れた

不思議な瞬間だった

あっという間の葬儀の準備

お父さんと叔父の2人はアメリカンスクールでの教育だったから日本の葬儀は知らない

ママはただ嘆いている

そんな中で20代の私が葬儀を仕切ることになった

通夜

告別式

最後の手紙

喪主である叔父にかわって手紙を読んだ

読み始めてしばらくすると
涙が溢れ出し止まらなくなった
どんなに堪えても涙が溢れ出す

お母さんは私にアナウンサーになって欲しいと言ってた事があった

話す日本語が綺麗だからと言っていた

歌もうまいからと苦手な演歌を歌ってほしいって

演歌は難しいから学校で習った他のやつがいいのにと思いながら歌ってた

お母さんは知らないうちに日本の文化を私に伝えてくれてたのかもしれない

戦後の悲しみ

シングルマザーで子供を抱え、我が子は聴覚障害者、女性差別、英語が話せてもイエローと言われる葛藤の中で生きてきた

ほかの著書にもあるように戦後の混乱期は過酷だった

生きるために選択をしてきたお母さん

私は後悔した

なぜ、あの時お母さんともっと話さなかったんだろう

自分の心を守るのに必死だったことを悔やむばかりの日々がしばらく続いた

けれど時の流れは未来に進むけど
過去に戻る流れはない

私とお母さんとの思い出は時々、私の胸を熱くする

そしてお母さんの強さから
今の私の信念が
真っ直ぐな思いが
生きているんだと感じる

親孝行したい時に親はなし…

お母さんとの事で痛感している

後数年でママはお母さんと同い年となる…

ママの幸せを心から祈り続けて

私にできる精一杯はしていく

お母さんが私に『◯◯を頼むよ』ママの名前でそう言われた時、本当はママを愛してるけど、どうしたらいいかわからなかったお母さんの思いが伝わった気がした

お母さんとママと私

似たもの同士なんだと思います

寂しがり屋の塊
ただ、互いに愛されたかっただけ

お母さんの有り難みも優しさも
全部、相手を思いやるあまりに
ぶつける事しかできなかったことも
今ならわかる気がする

不器用なお母さんでした

不器用に生きてきたお母さんが大好きです

昭和の時代を懸命に駆け抜けたお母さん

ありがとう

お母さんがいてママがいて私がいる

感謝

コンサート手話通訳をまっすぐに進められたのはお母さんの努力を見続けてきたから

お母さんがお父さんと再婚してアメリカの世界を小さい時から見せてくれたから

お母さんありがとう

2013年、ママがまだ生きてた頃に書き綴った「お母さんへの手紙」

今は亡きお母さんとママへ送ります

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