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青春のすべて

 五時半、まだ薄暗い寮の廊下に、一斉に声が響く。”起床ー!起床ー!起床ー!”。直後、総計20室の扉が勢いよく開き、寝起きの中高生が走り出す。我先に食堂に集まり、寮長の掛け声に合わせて、乾布摩擦を始める。どこの地方の方言か今でもわからない掛け声は、”おっせい!おっせい!おっせい!おっせい!”だ。平日の寮は、毎朝そんな風景から始まる。私の暮らした学校は、不思議な場所だった。
岡山の片田舎で生まれた私が、中学から上京し、青春を寮生活で過ごした話をすると、大抵の人は目を丸くする。寂しくなかった?辛くなかった?なんでそんなところに?ホームシックになって、一年目の冬に寮を脱走までした。美化のしようもなく寂しく辛く、何度も来た事を後悔した。それでも今あの寮は、私にとって最善の学び舎だったと信じている。思い返せば不潔で粗野で下品で乱暴だったが、そのくせ真面目で、青春の全てはあそこにあった。

 母校を知るきっかけになったのは、母が系列団体の一員だったからだ。断わるが、宗教の関係は一切ない。キリスト教系で毎朝礼拝はあったが、賛美歌と聖書の朗読以外は日常の些事や小話が主体で、うたた寝る学生達は、伝統で全員坊主だったから、異様な空気を醸していた。ついには賛美歌と聖書も時々省かれる上に、禅や仏教の言葉も扱うから、最早単なる習慣でしかなかった。
話を戻そう。母の勧めで参加した小五の夏の体験入学が、輝いていた。授業も宿泊体験も在校生の姿も理想的で、それまで進学校一筋で塾通いを続けていた私には、そこ以外あり得ないとさえ感じられた。大人はずるいもので、入学後そんな授業はなかったし、寮生活は地獄だったし、上級生には、一部を除いていじめ倒された。そこまで差があると、逆に笑いたくなる。
学校の教育指針の根幹は「自治」で、大人を介さない中高生のみの運営は「政治」と呼ばれる。年によって、高校三年生の方針で厳格にも柔和にも転ぶ。私が入学したのは、体罰が用いられた最後の年だった。失敗すると、真夜中に叩き起こされ正座で説教される。三時間もすると、血の通わない足は微動だにしなくなる。終わって"行け"、と言われても立てなくて、さっきまで叱り倒された上級生に負ぶわれて寝に帰ったこともあった。今では信じられない事だが、ほんの15、6年前の話である。

 青春は、青いものだ。私にとってあの寮で過ごした六年間は、叱られた時に見た青筋や、刈り上げた坊主の青さや、喧嘩でこさえた青タンや、暖房の効かない冬場の青っ鼻だった。そして、夜っぴて友人と真面目に話し込んだり、自分が盗まれてもいない盗難事件に涙を流したり、半年に一度の部屋替えを迎え、同室仲間で到底食べきれない量の餃子を包んだりする、底抜けの"青さ"があった。世間一般に使われる青春ではなかったが、飛び切りの"青"を過ごした。
"愛"を真顔で論じたのも、ここ以外ではあり得なかった。全国から集まる中学一年生を、我が子の様に迎える政治には、愛がなくては始まらない。彼らにどう学んでもらうのか、育ってもらうのか、父と母の様に話し合った。時には涙を流して議論をした。今でも五つ歳の離れた彼らと、時々酒を飲む。あの頃の私のことを、彼らは鬼の様に恐れていた。私達が必死に伝えようとした"愛"は、少しでも伝わっただろうか。

 卒業後人伝に、母校は坊主を廃止し、体罰を無くし、自治ではなく教員主体の運営に変えたと聞いた。今では礼拝も、自由参加らしい。学生の減少に少しでも抗う策と聞く。間違いだとは思わない。体罰は何も生まないし、坊主は意味がないし、礼拝は形骸化していたからだ。だが、我々が寝る間を惜しんで、時には涙を流しながら坊主の意義を論じた時間や、中一に彼らの親に負けじと注いだ見返りのない愛は、在校生達の学びに残っているだろうか。少しでもいいから、残っていて欲しい、と願って止まない。
こんな学校があったらいいな、と結婚すらまだ見えない私が考えるのは、随分気の早い話だと思う。だがいつか、我が子が生まれたら、必ずや"あの"夏の体験入学を勧めるだろう。私自身がずるい大人になって、彼を地獄の底に叩き込むと知りながら、それでもあの"青"を見て欲しくて。

#こんな学校あったらいいな

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