遙 5号

個人詩誌 5号

本詩誌5号では、詩と音楽との関わり合いについて述べた。今回は余韻について述べたいと思う。

最近「駅ピアノ」や「空港ピアノ」のプログラムをテレビで楽しんでいる。必ずしもプロでない人が駅、空港などに設置されているピアノを弾く番組である。歌を伴うこともある。心に沁みるメロディーが伝わり、喜びも悲しみも音符となって心に響く。そこには深みのある人生哀歌が詠われている。過ぎ去りしときを思い出し、さらに明日待つ気持ちを止揚させてくれる。何ともいえないひとときを楽しむことができる。

さて、理系の人は研究結果を論文として発表するが、明確な結論が要求されることが多い。これは研究者の宿命である。一方、文系の人は結論に関する考え方は必ずしも理系の場合と同じではないと言われる。詩の最終連や小説の最後で、結果を余りはっきりと書くと白けてしまうのではないかと感じる。終わりに近づけば余韻が必要ではないか。この後にどのようなシナリオが待っているかを読者がイメージできるかが、作品をよりよいものにするためのポイントの一つである。すなわち、詩ではすべてのシナリオを開示せず、読者に文言で書いてないことをイメージさせるのがいい詩であるための条件であると考えられる。イメージが膨らめばその詩の奥深さを感じられるようになる。筆者のように、理系のものが詩を書くとき、つい結論を書きたくなる。何とも言えないようなジレンマが生じているのではないだろうか。

音楽の演奏会はプログラム曲の出来が良ければ、演奏会としては成功だが、最後に演奏されるアンコール曲も楽しみの一つであり、重要な位置を占めている。アンコール曲は会場を離れても心に残るようななじみにある曲が選ばれことが多く、演奏会自体の印象も良くなると考えられる。聴衆からのアンコールの掛け声も演奏会を盛り上げるのに役立っている。その結果、余韻を残し、聴衆個人の記憶に残っていくと思われる。

絵の鑑賞でも同じであり、ギャラリーを出ても、具象画、抽象画に関わらず、瞼に記憶されるような気持ちになれば、訪れた価値がある。昨年6月に出版した詩集『モ至福のときG線上のアリア

ザイクの空』では、名画を見たときの心象風景を詩として描いたものだが、それぞれの絵は掲載していない。読者が絵を読む際にイメージとして感じていただければいいと思う。絵を掲載したときとの違いが出て、自然に余韻が生まれてくるのではないか。

このように余韻を楽しみたい。実際、巧みにこれを引き出すのは難しいが、読者や聴衆にとっても充実したものに[平尾1] なるのではないだろうか。その一例として、昭和9年6月に刊行された萩原朔太郎の第6詩集『氷島』から、詩を紹介する。


無用の書物

蒼白の人
路上に書物を売れるのを見たり。
肋骨みな痩せ
軍鶏の如くに叫べるを聴く。
われはもと無用の人
これはもと無用の書物
一銭にて人に売るべ寂しき人生を語り続けん。
われの認識は空無にして
われの所有は無価値に尽きたり。
買ふものはこれを買ふべし。
路上に行人は散らばり去り
烈風は砂を巻けども
わが古き感情は叫びて止まず。
見よ! これは無用の書物
一銭にて人に売るべし。 

朔太郎はニーチェの叙情詩を読んで、秋を感じていた。「無用の書物」を「無世の人」が路上で売っている情景をイメージとして浮き上がらせることにより、無を感じる生を余韻として巧みに表現している。人生の裏道を生きようとする朔太郎の気持ちが如実に表れていると思う。 

《詩点描》

忘却のとき 

自然の前では
人間の存在は余りにも小さい
昨日登った山は
空に届くようにそびえ立ち
頂上から見た海はどこまでも広い
近くに住む人間たちは
狭い土地で
ただあくせく働いている

地震や津波で牙をむけば
1・17や3・11の大震災
ガレキの中で
人間の無力さを知った
しかし
取り戻したい
記憶であるのか

窓から星空を眺めながら
どのように生きていけるのかと
無駄な問いかけを
繰り返している

生きるということ

わざと疎外されようとしているのか
人形のようなになった人間が
生きる力を模索している
何のため生まれてきたのか
組織にはなじまなく
哲学の世界に新たな道を捜した

ハラスメントに会い
仕方なしに
詩の世界に住んでいた
まだ若かったから
耐えることが出来たかも
決して意義のないときを
単に重ねてきたのではない
まわりの流れに飲み込まれず
冷えた心を精一杯温めてきた
これまで何とか生きてきたが
幻の夢は追わなかったので
その足音は聞こえなかった
自ら選んだ道を
進んでいると信じて
こころが救われてきたのか

 

無のとき

こころに魔物がいるようだ
絵を描きたくなると
魔物が現われる
怪しい目付きで
こちらを見ている
別の人格を持っている

 どうすればいいのか
魔物が姿を見せる
なやましい像

魔物が住んでいるかと
ずっと思っていたが
そこは無の空洞だった

その無と戦ってきたが
実は空洞の中を
魂が迷っていただけ

 この先どうなるのか
誰も教えてくれない
自分の意思に反して
虚無のときが漂っている

洪水

真夏だというのに
毎日土砂降り
川は溢れ
地面は滑る
自然の力は恐ろしい
幼きとき水遊びで戯れていたのは
幻だったのか
突風が街を襲い
家も流され
木もなぎ倒される
この世のものとも思えない情景
傘は何の役にも立たない
顔はびっしょり
田んぼも水浸し
折角実った米は台無しだ

これでは普段の生活は成り立たない
どのようにして生きていくのか
厳しいときが待っている
命が助かっただけでも良かった
地球温暖化のせいか

 雨が止んだ
青空が少しずつ見え始め
次第に夕焼けとなる
美しいひととき
新しい道が見えるのだろうか

詩に導かれ 

山奥の道を歩いている
青空に清々しさを感じる
知らない道だが地図にあるルート
独りの存在で
日常から逃避している
かなりの時間が経った
次第に雲が覆ってきた
まだ歩き続けている

 ついに雨が降り始めた
まだ小さな雨粒なのに
冷たく顔を伝わる
唇で触ると酸っぱく感じる
これまでの記憶が
溶けているのだろうか

霧が出始めた
道を覆っている
眼の前の視野が失われる
孤独の感がさらにつのる

どこに向かうのか
誰かに導かれているのか
それとも漠然と
進もうとしているだけか

祈りのメロディーが聞こえてくる
ようやく霧が晴れて
道標が示してくれる
進む方向は間違っていないと
実りあるときを信じて
空に向かって明日を歌う

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電子媒体のオープンアクセス詩誌『Σ 詩ぐ魔』を3月に創刊します。編集人は松村信人、阪井達生、和比古(グループ牛、三人とも牛年生)です。読んで頂ければ幸いです。次号からは無料投稿が可能ですので投稿を待っています。二つのキーワード[Note]と[詩ぐ魔]で検索して下さい。************************

個人詩誌も今号で早くも5号となりました。年2回発行にもかかわらず多くの反響が得られており、有り難く思っています。今後も頑張って個人詩誌を発行していきたいと考えています。デジタルコンテンツhttps://note.com/note8557/n/nb90c621353abもスタートしました。ご覧下さい。

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『遥』5号
発行日:2022年3月31日
発行人:和比古(かずひこ)


詩と絵のコラボ

和比古が書いた詩と描いたパステル画のコラボレーションで創出された空間を楽しめます。

風の夢

目のある風がいた
どこにでも行けるのに
街から離れなかった
過ぎ去りしときを
いま忘れるために
新たな風に変身する
爽やかなひととき
透明な姿で夢を見ている

和比古詩集「風の構図」より抜粋

「花は咲く」が響いて

変わってしまった海の景色
あの街はどこにいったのか
波に運ばれていった人々の
微笑みが寂しく見える
陽が雲に差し込み
進むべき道へ誘っている
悲しみの向こうで
いつか花は咲く

和比古詩集「人間の構図」より抜粋改稿

不条理な社会 

人間はどう生きるべきか
教えて欲しいと
魂の声が聞こえる
矛盾した事が起こる世界
やさしい心は失われたのか
これまでの道と異なり
歩きながら魂が惑う
ただ生きていかなければ

 
和比古詩集「人間の構図」より抜粋改稿


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