言葉で保障する

 「言葉で保障する」というのが今年の私の目標です。ぼんやりした言葉なので、この目標は何のためにあるのかしばしば分かりずらい。ただこのぼんやりとした言葉は、その時々、どんな状況にも合わせやすいので、気に入っています。

 ほめる言葉から、生徒の見えない可能性を引き出すこと。温かい言葉で、誰かが「ここにいていいんだ」と思えるようにすること。職場や学級の雰囲気が嫌いな人の、「嫌い」を認めること。自分の怠惰や頑張りを、ライフログを読み返して認めること。(だらしのない自分も認めたうえで、やれることを頑張ってみること。)
 自分や人の存在を、言葉で保証して、のびのび生きることができれば…と考えているのです。


 教員という立場、その振る舞いは、自分が予想する以上に生徒に反響しているようです。教員として働き6年経ちましたが、その反響の大きさはいまだはかり知ることができません。
 子供は学校の環境よりも、家庭の環境で育つ部分が多いようです。しかしながら、「学ぶ姿勢」については学校の環境で伸びるものだと思っています。「学ぶ姿勢」は、こまやかな温かい言葉で、育てることができるように思います。子供の伸びを、ほめる言葉で明確にすることで、大きなやる気を得ることができるはずです。

 一方で「できないこと」を非難しては伸びません。学ぶことや考えることを停止してしまいます。自分の学級の生徒が伸び悩んでいるのを見れば、こちらとしてはしばしば焦ってしまいますが、できるようになるまで待つことも大事です。(しかしながら、成績処理の期限が中心で、生徒を叱責してしまうこともあります。そうならないための先手の動機付けがなかなか難しい。)

 自分の小学校時代の話です。私はくもんや塾にも通わず、成績は中の下でした。(周りと比べる必要はないのですが。)勉強が嫌いでした。点数を取ることの先に何があるのか、あまりわからなかったので。
 一方で自然科学や生物の分野を好み、生物図鑑をいつも読んでいました。棘皮動物や軟体動物などの生物の分類ができ、蝶の生活史を説明できました。

 小学校高学年になると、「自主学習ノート」となるものの提示が求められました。自主的に、週1回好きな分野を勉強して提出して良いというものでした。私は嬉々として、生物図鑑の内容をまとめ定期的にノートを提出していました。授業内容とはまったく異なる分野について復習していました。
 何回かノートを提出した後、先生から「生物の勉強をするのもよいけど、少しは授業でやった内容を復習したら?2週間に1回でもよいからさ」と言われました。そこで私はたちまち、自分がノートに書きまとめていたことが学校では無駄なことだったのだ、とショックを受けました。学校はその時の自分の中では大きな存在であったので、自分の好きな部分を、大切な居場所に、やんわりと否定されたような気がしました。

その後、特段ぐれたり先生との仲が悪くなった、ということはありませんでした。生物図鑑を眺めることも変わらず日々が過ぎました。ただ、それを境に自主学習ノートを提出した記憶は残っていませんが。

 今思うと、先生はまっとうなことを言ったと思います。学級の授業から逸脱した者は、周りの子供たちから非難される因子になりやすい。なので授業内容を復習しなさい、ということは私自身を学級の中で保護するためにも必要なことであったとも思います。また、授業に沿った復習をすることで、自主的に勉強する力をつける目的もあったでしょう。とにかく、そのアドバイスを素直に受け止めなかった私自身がひねくれ者であるということに間違いはありませんでした。

 ただなぜかこの記憶が強く残っており、心境としては非難されたという気持ちが強いのです。


 とても小さなことでも、顔が見える「人 対 人」の関係では、相手の将来や思想、習慣を左右する大きな要因につながりうるのです。特段、子供に対してはそうなのでしょう。
 『少しだけ』毒気や矯正の意図を含んだ言葉は、ことによると子供の可能性をつぶすかもしれません。そう思って、ひとつひとつの言葉を丁寧に、人に与えていきたい、と思っています。


(では『自主学習ノートに授業とは関係なしの生物の分野ばかり書いている変わり者』がいたら、どんな言葉をかけ、授業に目を向けさせることができよう?…なかなか難しい)


 森博嗣著『人間はいろいろな問題についてどう考えていけばよいのか』を読み、教育について考えたことでした。おわり。

#エッセイ #人間はいろいろな問題についてどう考えていけばよいのか #教育 #自己指導能力

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