運転免許証が単なる身分証明書になった日

若い頃はデート向きの車高低めの車に乗っていた。

次の車は荷物がたくさん乗るワゴン。家族が増えてもいいように、後部座席も広いやつ。

今の車は、小型の外車。家族が増えることもないし、あまりドライブに出ることもないので、小さい方が価格も税金も安いし、取り回しが楽だ。座席が硬めの設定で、長距離ドライブは疲れる。長距離ドライブにほとんど出なくなったので、走行距離も短い。若い頃は年間1万キロを超えていたが、今では4000キロほどである。

近所を走るにはむしろ便利だ。軽四スペースでも楽に駐車できるし、Uターンも楽勝。荷室が狭いので、大きな買い物はできないけれど。



車に相当な経費がかかっていることも気にはなっていた。200万円の車を10年乗ったとしても年間20万円かかっていることになるが、これに車検費用と税金と保険代と駐車場代は1ミリも動かなくてもかかってくる。これにさらにガソリン代、オイル交換などのメンテナンス代、高速料金などのコストがかかる。

私の場合、かなり倹約しているつもりではいるが、それでも車自体の価格も含めた維持費は高速料金を除いても年間40万円はかかっていることが分かった。つまり1キロ100円である。そのうち半分以上は1人で運転していると思う。タクシー代よりはだいぶ安いが、新幹線よりもだいぶ高い。


車は趣味だと言う人は結構いる。そう言う人たちは自動車のメカ的な魅力に取り憑かれている。例えばエンジン音とか。ところが自動車は「機械」から「電化製品」に代わりつつあり、やがては「ロボット」になろうとしている。そうなると自動車のメカ的な魅力は大きく損なわれるだろう。エンジン音は静かなモーター音に変わるし、小さな町工場で改造したりもできなくなる。私の知人はそのことを深く嘆き、モーターショーに足を運ぶのをやめてしまった。


一方で、老人による暴走は今や社会問題だ。いつ頃からこんなに騒がれ始めたんだろう。

池袋での事故では加害者の言動が批判に晒されたが、加害者の立場からすれば、長年真面目に働いて、高い社会的地位を得て、悠々自適のリタイア生活を送っていたのに、名前を晒され、今まで受けたことのないような批判を受けて、人生の晩節を汚してしまい、無念だろうと思う。

実家に年老いた母がいる。田舎なので、自動車がないと生活しづらいのは分かるので、強制的に免許を返納しろとまでは言い出せないので、自分でよく考えて決めて欲しいと伝えている。幸い、最近は運転しようとすると目眩が起こることがあるらしく、ほとんど運転しなくなったようだが。


自分自身もどんどん老化して来ている。やがてはそのこと自身に気づかなくなるだろう。「アルジャーノンに花束を」の後半を思い出す。

やがては運転をやめなければならないと思ってはいるが、それがいつなのかについてイメージしていなかった。そしてそれは何かのきっかけで踏み切らない限り、いつまでもイメージできないかもしれない。仕事で自動車を使っている人にとっては、定年がそのきっかけになり得るだろう。だが私は違う。そのきっかけが自身の起こした悲惨な事故だったら辛い。

池袋の事故の報道を見ながら、これを他山の石として、さっさと運転をやめてはどうかと思い至る。不便になるかもしれないが、10年後ならもっと不便になるだろう。だったら今から始めた方が10年後の不便は少し楽になるに違いない。

お金はずいぶん浮くし、人を殺すリスクが大幅に減る。


そんなことを考えて、車の運転をやめることにした。引越しを決めたので、そのタイミングで駐車場の契約をやめる。つまり車よりも遥かに大きな買い物をして、代わりに少し出費を抑える。引越し先は駅も近く、駅周辺のも色々揃っているので、車なしでも生活できそうだ。

保険会社にも連絡。引越しする11月22日の3日後、11月25日で任意保険を終了。

車は7年以上乗っているので、売り値は気にしてなかった。ディーラーに持って行ったら8万円と言われた。これが高いのか安いのか分からないが、マイナスにならなければOKと思っていたので、十分満足。


11月25日。無事車を売って、運転生活を卒業。免許証を返納すると何かと面倒なので、当面はその予定はない。ともあれ免許証が単なる身分証明書になった。


早めの運転卒業。少し不安や心残りもあるけれど、なくなったストレスの方が多分ずっと大きい。




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