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今宮純さんと90年代のF1ブーム

去る1月4日、長年F1グランプリ中継の解説を務められたジャーナリスト、今宮純さんがお亡くなりになられました。
かつては実況アナウンサーと共に各国を転戦しながら解説者としてテレビに登場し、穏やかな語り口で難解なレースをわかりやすく解説してくださいました。
また、モータースポーツ雑誌のコラムや著書によって、観戦するにあたってのポイントや、様々な知識を我々読者に与えてくださいました。
正に、日本のF1人気の土台を築いて下さった方であり、日本のモータースポーツ界に多大なる功績を残してくださいました。

ただ現在、F1の認知度は他のスポーツに比べても低いと感じています。これは日本に限らず、世界的にも言えることのようです。
今、F1に日本からホンダが参戦し、昨年は3勝も挙げたということを多くの方が知らないと聞きます。

しかし、30代後半〜40代の方々にとって、F1と言って思い浮かべるのは、あの「ブーム」の頃でしょう。
出てくる言葉は「セナ」「プロスト」「マンセル」「マクラーレンホンダ」…。そう、かつて日本でF1がブームだった頃があったのです。

今回は、今宮純さんへの感謝と惜別の思いを込め、80年代後半〜90年代に起こった「F1ブーム」について語りたいと思います。

ホンダF1の黎明期

ホンダについては、説明の必要はないでしょう。いつもCMでよく見る、日本の自動車メーカーです。今やグローバル企業へと成長したホンダにも、黎明期がありました。
ホンダが日本の自動車メーカーとして初めてF1に参戦したのは、前の東京オリンピックが開催された1964年。バイクメーカーとして成長を続けるホンダが、まだ自動車を発売したばかりの頃です。
創始者である本田宗一郎さんの「技術はレースで磨かれる。やるなら世界一のレースじゃなきゃダメだ」という言葉のもと、まだ海外に出るのも困難な時代に、世界を転戦するレースに出場したのです。

ちなみにF1(Formula 1)とは、主催者が制定したルール(レギュレーション)に基づいて各チームが制作した自動車を使って世界各国を転戦し、年間王座「ワールドチャンピオン」を決める自動車レースのことを言います。
初開催は1950年。以降、ヨーロッパを中心に世界中で人気のスポーツになります。今や従事する人もチームの規模も、もちろんサーキットに詰めかける観客も自動車レースの中では世界で一番。文字通り「世界一の自動車レース」なのです。

この頃のホンダは、エンジンもマシンも自ら制作し、海外のドライバーと契約して参戦していました。マシンカラーは、白地に赤の「日の丸」。大和魂が込められたマシンは、ヨーロッパのファンにも人気だったそうです。
数々の困難を乗り越え、ホンダは5年の参戦期間に2勝を挙げる戦績を残します。チャンピオンこそ獲れなかったものの、極東の小さな自動車メーカーが世界一の自動車レースで2回も勝つんですから、今考えてもすごい事です。
後にこの頃の活躍を「第1期」と呼ぶようになります。1期があるなら、当然「第2期」があるわけで。

第2期ホンダの台頭

ホンダが再びF1に戻ってきたのは、1983年。
シーズン途中から、スピリットというチームにエンジンを供給する形で参戦を開始しました。

当時のF1は、ターボエンジンが次第に勝敗を左右するようになった過渡期にありました。
フランスのルノーが、強力なパワーを生み出す小型のV型6気筒ツインターボエンジンを開発。レースを席巻するようになり、他のメーカーもこぞってターボエンジンを開発するようになっていたのです。
ホンダもそのメーカーのひとつ。F1に参戦しながら技術を高めようとする本田宗一郎さんの理念そのままに、世界一のエンジンメーカーになるべくホンダの奮闘が始りました。

1984年、ホンダはウィリアムズチームにもエンジン供給を開始します。
ウィリアムズは、1980年、81年とワールドチャンピオンに輝いたトップチーム。優勝を狙えるマシンに、ホンダエンジンが搭載されることになったのです。
しかし、まだ技術的に熟成されていないエンジン。簡単に勝てるわけではありません。苦しみながらも成長を続け、なんとその年に1勝。第1期以来の優勝を成し遂げます。
その後はエンジンも熟成が進み、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケのドライバーの活躍もあり、1986年にはチャンピオン争いを繰り広げるまでに成長。チームタイトルである「コンストラクターズチャンピオン」を獲得するのです。

※ホンダF1オフィシャルサイト。第1期から現在までの歴史が紹介されています。

ターボエンジン搭載車ではないと優勝争いができなかった時代。F1へのカムバックから3年で、常勝軍団の仲間入りをしたホンダ。F1への注目が集まる中、日本のF1にとって重要な年を迎えます。

ブレイクスルーとなった1987年

1987年は日本のF1の歴史において、最もブレイクスルーとなった年でした。
まずは、日本人初のフルタイムF1レーサーとして、中嶋悟がロータスチームからデビューします。

F1ドライバーになるには、主催者(FIA)が認めた「スーパーライセンス」を取得すること、そしてF1チームとの契約が必要です。
かつて日本人ドライバーがF1に出場したことはありましたが、いずれも「スポット参戦」で1戦のみ、という形でした。
中嶋はロータスチームと年間契約を結び、晴れてすべての国のレース(グランプリ)を走ることができる、日本人で最初のドライバーとなったのです。

中嶋は日本国内のレースでトップ争いを長年演じ、ヨーロッパのレースにも参戦しながら経験を積んできました。しかし、日本人ドライバーにとってF1はまだまだ敷居の高い存在。日本国内でトップのドライバーでも、F1で年間通して参戦できるだけの門戸は開いていませんでした。
しかし、ホンダが1987年からロータスチームへエンジンを供給し始めることをきっかけに、ホンダの契約ドライバーであった中嶋に白羽の矢が立ったのです。中嶋はこの時32歳。機会を待ちに待った、遅咲きのデビューでした。

中嶋の全戦参戦を機に動いたのがフジテレビ。今までダイジェストが中心だったF1を、全戦完全中継し始めました。今宮さんも、この年の開幕戦から解説者として中継に登場します。主催者から放映権を得ての中継開始でしたが、その先には日本のF1人気を決定付ける計画もありました。

それは、11月に三重県の鈴鹿サーキットで開催される、日本グランプリ。

各国で開催されるレースは「グランプリ」と呼ばれます。
日本でF1が開催されるのは3回目。1回目は1976年の「F1 イン ジャパン」。公式戦ですが、すでに国内で「日本グランプリレース」というイベントがあったため、グランプリの名前が使えなかったのです。
会場は静岡県の富士スピードウェイ。雨の中のレースは後に伝説となり、2013年に公開された「Rush プライドと友情」という映画でクライマックスを飾る重要なレースとして出てきます。
2回目は翌年の1977年。この年から「日本グランプリ」として開催されました。晴天の中、同じく富士スピードウェイで開催されますが、レース序盤に激しいクラッシュが発生。観客が死傷する騒ぎとなってしまい、以降日本でF1が開催されることはありませんでした。
注)観客席ではなく、コース上の立ち入り禁止区域にいた観客が死亡するという事故でした。現在はサーキットの安全性が大幅に見直され、レース中は観客席以外で観戦することは不可能なため、観客が死傷する事故は発生していません。

それから10年、フジテレビがメインスポンサーとなり、再び日本でF1が開催されることになりました。もちろん中嶋やホンダにとっては凱旋レースです。
記念すべきレースで優勝したのは、フェラーリのゲルハルト・ベルガー。残念ながらホンダの優勝はありませんでしたが、チャンピオン争いを繰り広げていたウィリアムズ・ホンダのマンセルが予選でのクラッシュで負傷。決勝は不参加となり、チームメイトのピケがドライバーズチャンピオンを鈴鹿で獲得しました。
そして、われらが中嶋も6位入賞。見事に故郷に錦を飾りました。

大成功に終わった日本グランプリ。サーキットには大勢の観客が詰めかけ、後のF1ブームを決定づけたイベントとなりました。後にF1ドライバーになる幼少の頃の佐藤琢磨や、多くの関係者もスタンドからレースを見つめていました。もちろん、今宮さんにとっても感慨深いグランプリになったに違いありません。
日本グランプリはその後も毎年開催され、今年も10月に鈴鹿サーキットにやってきます。実は私、まだ日本グランプリを見に行ったことがありません。でも、今年あたりはそろそろ…と思っています。

ホンダの活躍、中嶋悟の登場、そして日本グランプリ開催と、日本でF1が広まる土台はできました。しかし、そのあとに起こるライバル対決が、「ブーム」と呼ばれるまでF1人気を押し上げたのです。
日本のみならず世界中が固唾をのんだ、F1の歴史上最も有名なライバル対決の物語。

セナvsプロスト ~最悪にして最高のライバル対決~

1980年、ひとりの天才ドライバーがF1にデビューします。
フランス人ドライバー、アラン・プロスト。
マクラーレンからデビューした新人はデビューイヤーから活躍し、翌1981年に地元フランスのルノーへと移籍。フランスGPで初優勝を飾ります。
1983年にはチャンピオン争いに加わるまでに成長し、翌1984年に古巣のマクラーレンへ移籍します。
その時にチームメイトとなったのは、2度のワールドチャンピオンに輝きながらも1979年からF1を離れていたニキ・ラウダ。先ほど紹介した映画「Rush プライドと友情」の主人公のひとりです。
プロストはラウダから「帝王学」を学んだと言われます。予選での一発の速さ、優勝を逃さないレース運びだけでなく、年間通してチャンピオンになるため、入賞ポイントを落とさない戦い方を学んだのです。
翌1985年には念願のドライバーズチャンピオンを獲得。フランス人として初めてのタイトル奪取でした。

プロストが「帝王学」を学んだ1984年、もう一人の天才ドライバーがデビューします。
ブラジル人ドライバー、アイルトン・セナ。
遠くブラジルから単身イギリスへ武者修行に出たセナは、F1直下のカテゴリーであるF3で圧倒的な速さを見せ、この年にトールマンからF1デビューを飾ります。
優勝争いが難しい下位チームではあったものの、持ち前の速さでポイント争いに加わっていきます。

そして、今や伝説として語り継がれる、1984年モナコグランプリ。
大雨の中という危険なコンディションの中、次々にポジションを上げていくセナ。トップを走るマクラーレンのプロストに、あと一歩というところまで迫ってきました。
しかし、コースコンディション悪化に伴い、レースは中止。初の2位表彰台に立ちますが、あと数週レースが続いていれば、トップのプロストを抜き、優勝できていたのではと言われています。
神がかりと言えるマシンコントロール。雨のレースで絶対的な強さを見せるセナ。翌1985年からトップチームであるロータスへ移籍し、雨のポルトガルグランプリで初優勝を飾ります。

前出の通り、1986年になるとホンダエンジンを搭載したウィリアムズが台頭。ルノーエンジンを積んだロータスで苦戦を強いられたセナは、勝つためにホンダエンジンを切望するようになります。時には当時のホンダ監督、桜井さんに直談判することもあったほど。
そんな熱意が通じ、1987年からロータスへホンダエンジンが供給されるようになります。チームメイトは中嶋。思えば、中嶋のデビューはセナのホンダエンジンへの想いが叶えてくれたのかもしれません。

かたやプロストは、1986年にもドライバーズチャンピオンを獲得。ウィリアムズホンダが台頭する中、着実にポイントを稼ぎ、最終戦での逆転チャンピオンを獲得。トップドライバーの座を揺るぎないものにしたのです。

1988年。プロストが所属するマクラーレンにホンダエンジンが搭載され、チームメイトとしてセナを迎えることになりました。プロストとセナ。ここで両雄交わることになります。
「ジョイントナンバーワン」と言われたマクラーレンホンダ。この年圧倒的な強さを見せ、セナとプロスト2人だけで16戦中15勝というとんでもない記録を打ち立てます。

そして、最強の二人で争うドライバーズタイトル。チャンピオン決定の天王山は、2年目の鈴鹿、日本グランプリへ。
ポールポジション(予選1位で先頭からスタートできる権利)からスタートしたセナ。しかし、シグナルがグリーンに変わった瞬間にエンジンストール。その場で立ち往生してしまいます。
幸い、下り坂になっている鈴鹿のホームストレート。何とか自力でマシンを動かしますが、ポジションを大きく落としてしまいます。
しかし、鬼神の走りで1台、また1台と抜き去り、遂にトップのプロストの背後に迫ります。
そして28週目のホームストレート。圧倒的なスピードでプロストを抜き去りトップへ。そのままチェッカーフラッグを受け、ホンダの地元、鈴鹿の地で初のドライバーズチャンピオンへと昇りつめたのです。

同じチームで走る最強の二人。いつしかお互いの間に溝ができ始め、それがだんだん大きくなっていくのです。
翌1989年もマクラーレンホンダはセナとプロストが走り、前年同様グランプリを席捲します。
この年から、パワーが出すぎて危険であるとの理由でターボエンジンが禁止になり、過給機を付けない3.5リッターの自然吸気エンジンの搭載が義務付けられます。
最強のターボエンジンを作り続けてきたホンダ。時には1500馬力を捻出したと言われていますが、レギュレーションの変更があっても撤退することなく、マクラーレンにV型10気筒エンジンを供給します。
しかしターボがなくても、ホンダは速かった。大きなルール変更にも負けず、セナとプロストは当たり前のようにチャンピオン争いを演じます。

両者の溝が決定的になったのは、この年のサンマリノグランプリ。
この日二人は「先に1コーナーへ侵入した者がトップを守り、無理な追い越しはしない」という紳士協定を結んでいました。混乱が起きやすいスタート直後の争いを回避し、レースを二人にとって有利に進めるためのものでした。
しかし、スタート直後トップに立ったプロストを、2コーナーでセナが抜いてトップに立ってしまうのです。
紳士協定を破ったセナ。二人の溝は決定的なものとなります。その後、プロストはメディアを巧みに使って、チームやホンダにまでプレッシャーを与えていきます。「ホンダは私とセナに違うエンジンを供給している」と言って物議をかもしたのは有名な話。
そして、プロストはシーズン中に翌年のフェラーリ移籍を発表。フェラーリのお膝元であるイタリアグランプリで優勝し、優勝トロフィーをファンに投げ与えてしまうという事件まで発生しました。

ムードが険悪になる中、それでもチャンピオン争いはセナとプロストとの間で繰り広げられ、天王山は再び鈴鹿へ。
予選で勝ったのはセナ。2位のプロストはスタート直後トップに立ち、レースをコントロールしていきます。
タイトル争いでもプロストが優位。セナが逆転チャンピオンになるには、優勝が絶対条件です。
レース終盤の47週目。後に語り継がれる大事件が発生します。

トップのプロストにじりじりと忍び寄るセナの影。130Rを抜け、シケイン手前で遂にセナがプロストに追いつきます。
シケインは絶好のオーバーテイクポイント。ブレーキを遅らせ、プロストのイン側に入ろうとするセナ。しかし、インに入られまいとブロックするプロスト。両者の意地が真っ向からぶつかった瞬間、2台のマシンはシケインを進むことなく接触。立ち往生してしまう!

問題はその後。再スタート不可能と判断したプロストはそのままリタイヤ。是が非でも勝たなければならないセナは、コースマーシャル(事故車の処理など、コースコンディションを整えるスタッフ)にマシンを押させ、シケイン脇のエスケープゾーンを抜けてレースに復帰。ポジションは落としたものの、鬼神の走りでトップへ返り咲き、そのままチェッカーフラッグ。
セナの逆転優勝か!?と思われましたが、シケインを通過しなかったことが危険な行為とみなされ、失格を言い渡されてしまったのです。

失意のセナ。しかしこの裁定が下った瞬間、プロストのドライバーズチャンピオンが決定しました。

翌1990年を迎える前、セナにまたも災難が降りかかります。
F1の主催者であるFIAの当時の会長、ジャン・マリー・バレストルから「危険なドライバー」とみなされ、出場に必要なスーパーライセンスをはく奪されるという騒ぎになりました。
バレストルはフランス人。プロストびいきか?とも言われましたが、結局セナが謝罪する形でスーパーライセンスが発給。安堵しましたが、セナの精神状態は限界に達しているようにも見えました。

※1989年の鈴鹿とその後が紹介されたダイジェスト映像。F1オフィシャルサイトより。

1990年、チームの袂を分けた二人でしたが、結局チャンピオン争いはこの二人が演じます。そして、3度目となる鈴鹿での天王山。

私が初めてF1グランプリを見たのがこのレース。1990年の日本グランプリです。雑誌の記事を見て興味を持ち、中継のオープニングテーマであったT-SQUAREの「TRUTH」に憧れました。中継をビデオに録画し、何度も見たものです。
ちなみに、この「TRUTH」でフュージョンというジャンルを知り、楽器演奏に憧れてバンド活動に没頭していくのですが、その話はまたいずれ。

この日のポールポジションもセナ。2位からプロストが勝機をうかがう構図を何度見たことでしょう。しかしこの年のドライバーズタイトル争いは、セナの方が優位でした。

セナとプロスト。3度目の争いはどちらに軍配が?緊張感高まる中、シグナルはレッドからグリーンへ!!

スタートを成功させたのはプロスト。一気にトップに立つも、セナがその背後について離れない。至近距離で1コーナーへ侵入するその刹那・・・。
なんと、セナのノーズがプロストのリアを直撃!交錯しながら、1コーナーの砂の中へ…。

スタート直後、数秒で起きた衝撃。二人のチャンピオン争いは、この瞬間終わりを告げました。二人のリタイヤをもって、今度はセナのワールドチャンピオンが決定します。

後に今宮さんが解説を務めたリバイバル番組で衝撃の事実を知るのですが、レースからだいぶ時間が経ったある日のインタビューで、セナへ「あれは故意にやったことなのですか?」と尋ねるインタビュアーに対し、静かに首を縦に振ったそうです。用意周到に計画していたことなのか、またはあのシチュエーションがそうさせたのか。2年連続で似たような状況下、お互いが最悪の形でチャンピオンを分け合ったのです。

続く1991年。マクラーレンはV型12気筒へと進化したホンダエンジンを搭載し、セナが開幕4連勝。しかし、今もレッドブルホンダで活躍する奇才、エイドリアン・ニューウェイが作り出した最強のマシン、FW14を投入したウィリアムズルノーのマンセルが台頭します。セナとマンセルのチャンピオン争い、天王山はまたしても鈴鹿。レース序盤、トップに立ったセナのプレッシャーに屈し、マンセルが1コーナーでコースアウト。2年連続ドライバーズタイトルをセナが奪取します。
この日の主役は完全にセナ。終始トップを守りますが、最終ラップでスピードを落とし、2位を走行していたチームメイトのベルガーに、チャンピオン獲得をサポートしてくれたお返しにと勝利をプレゼントするという余裕まで見せ、マクラーレンホンダの完全勝利を演出します。
前の年まで最悪のタイトル決定を演出した鈴鹿。しかし今年は違います。表彰台で歓喜するセナ、ベルガーとチーム監督のロン・デニス。その姿を見て、放送中にも関わらず涙を抑えきれなかった今宮さんの声が、今も記憶に残ります。

セナ・プロ時代の終焉と終わりゆくブーム

1992年はハイテク元年でした。コース状況をコンピュータに記憶させ、リアルタイムでマシン状態をコントロールする「アクティブ・サスペンション」を導入したウィリアムズのマンセルが、秋を待たずに早々にドライバーズチャンピオンを決めてしまいます。
日本ではバブルが弾けて不景気の時代へ。それまでバブル景気が後押しして、日本企業も様々な形でF1を支援していましたが、この年を境に姿を消していきます。
そして、最強エンジンでF1を席捲したホンダも、それに抗うことはできませんでした。1992年をもってF1を撤退。フジテレビのインタビューを受けたセナは「今まで頑張ってくれたすべてのホンダスタッフに感謝します」と言い残し、後ろを向いて走り去る姿が印象的でした。左腕で涙をぬぐいながら。

91年の不振からチームと揉めたのをきっかけにF1から一時退いていたプロストが、1993年にウィリアムズルノーで復帰。前年の圧倒的な強さそのままに、ホンダエンジンを失ったセナをも蹴散らしてチャンピオン奪還。そのまま引退を発表します。
最終戦のオーストラリアグランプリ。マクラーレン最後のレースとなったセナが優勝。プロストは2位に終わりますが、セナが表彰台の頂点から2位のプロストの手を引き、一緒に並んだ姿が人々の感動を誘いました。
あれだけ忌み嫌い合い、サーキット内外で激しい争いを繰り広げた二人。強烈なライバル争いの先に、二人の関係が大きく変わった瞬間でした。

1994年。プロストに代わり、セナがウィリアムズに加入します。
アクティブサスペンションをはじめとするハイテク機材がこの年から一部禁止になり、マシン状態も大きく変わりました。

そして迎えたサンマリノグランプリ。プロストというライバルを失ったセナ。台頭してきた新鋭ミハエル・シューマッハを寄せ付けず、予選でポールポジションを獲ります。
しかし、この年のサンマリノグランプリは呪われていました。金曜日の練習走行、ルーベンス・バリチェロが激しくクラッシュし、病院へ搬送されます。病室で意識を取り戻したバリチェロの目に最初に飛び込んできたのは、同郷の先輩であるセナの姿だったといいます。
そして予選。かつてセナとプロストが紳士協定をめぐって争ったトサコーナーで、その年デビューのオーストリア人、ローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ。残念ながら、彼は帰らぬ人となります。

失意の中始まった決勝。ポールポジションのセナはナーバスになっていました。それでも、レースはスタートしなければならない。
レースはセナがトップで順調に進み、迎えた7周目。
高速で走り抜けるタンブレロコーナー。スムーズに走り抜けるはずのセナのマシンが、コーナーに吸い寄せられるように急に右旋回。そのままウォールに激突。
あまりの衝撃でコース上に押し戻されるマシン。ようやく止まった時には、セナのヘルメットがうなだれていました。
すぐに救護班が現場へ駆けつけ、懸命な処置が施されます。気道を確保するため、現場でのどを切開。空撮でしたが、鮮血までテレビの映像に映し出されます。
程なくして救護ヘリが現場へ到着。セナはコース上からそのまま病院へ搬送されます。

深夜にもかかわらず、高校生だった私はずっと中継を見ていました。
その後、レースは再開。何事もなかったかのように進みますが、衝撃的なニュース速報がけたたましい音とともに流れました。

「事故で搬送されたアイルトン・セナ選手が、収容先の病院で亡くなりました」

このレースには、フランスのテレビ局のゲスト解説として、プロストの姿もありました。練習走行で無線越しに「親愛なるアラン、君がいなくてさみしいよ」と語りかけたシーンもありました。

日本でもレース中継は打ち切りになり、実況の三宅アナウンサー、当時ピットリポーターだったF1アナリストの川井さん、そして解説の今宮さんの3人で、急遽追悼プログラムに変更されます。
生中継にもかかわらず、その場で泣きながらコメントを紡ぐ今宮さん。あまりのドラマティックさに、その後イギリスで製作されたセナのドキュメンタリー映画にその時の状況がそのまま使われました。

「次のモナコグランプリ。セナはいません。でも、F1はずっと、続いていくんですね…」

衝撃的なセナの死を境に、日本のF1ブームの火は静かに消えていきました。

あれから25年。
第4期になったホンダが、優勝を狙えるトップチーム、レッドブルとタッグを組み、マックス・フェルスタッペンという若い才能の力を借りて、3度優勝を勝ち取りました。
でも、チャンピオンを獲るのは簡単ではありません。タッグ2年目の今年、最強軍団メルセデスを打倒すべく、新しいシーズンが始まりました。

しかし、今年の躍進を見ることなく、今宮さんはセナや本田宗一郎さんが待つ天へと旅立っていったのです。

この記事の知識の大半は、今宮さんが書かれた著書「パドックパス」を何度も読み返して得たものです。F1を初めて見た年から30年ほど。途中見なかった時期もありましたが、その時得た知識をもとに、ずっと楽しんで観戦してきましたし、今後もそれは続くでしょう。
これからのF1を、ホンダや日本人の活躍を、セナや本田宗一郎さんと共に見守っていてほしいです。F1はずっと、続いていきます。

今宮純さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。

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