『結晶塔の帝王エンテイ』の感想と、『ココ』に期待すること【ポケモン映画感想】

※本記事は、以下の作品のネタバレを含みます。
『ミュウツーの逆襲』
『ルギア爆誕』
『結晶塔の帝王エンテイ』

『結晶塔の帝王エンテイ』の感想

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 画像引用元:2000年 結晶塔の帝王 エンテイ 同時上映・ピチューとピカチュウ | ポケモン映画 プレイバック・ザ・ヒストリー

 『結晶塔の帝王エンテイ』を観ました。『ミュウツーの逆襲』もそうでしたが、アバンタイトルが完璧。娘ミーと父親シュリー博士の暖かな会話。父親の失踪。娘の切なる願いが大惨事を引き起こし、それによって生まれたエンテイは父親として彼女を守ることを決意する……で、タイトルがドーン!!!!! なんとこの間わずか10分未満。本作のテーマや設定を分かりやすく提示し、かつ凝縮されたドラマとしてまとめる構成が本当にお見事。
 特にミーの「パパ……ミーにメールちょうだい……」という台詞には心を揺さぶられました。ミーは、父親がメールを読むと仕事に行ってしまうことを理解しています。冒頭のシーンで、父親宛てのメールが届いたときに表情を曇らせたことからそれが分かります。つまり、彼女にとってメールは本来、自分と父親の大切な時間を壊す存在でした。彼女はそんなメールに希望を見出すのです。父親からのメールが欲しいと。
 自分に理不尽をもたらす存在が、今だけは自分に希望をもたらす存在として機能してほしい、そんな無意識の祈りと叫びが込められているように感じました。この現状は変えようがない、誰も助けてくれないと最初から諦めていれば「パパ……寂しいよ……会いたいよ……」と嘆くだけで終わったでしょう。しかし、諦めていないからこそ彼女は情報端末を開き、祈りの言葉を口にします。悲劇に受動的であるのではなく、能動的に動いて打開策を探す。しかもそれは、無力で純粋な子どもの精一杯の努力なのです。これに心を揺さぶられずにいられましょうか。まさか冒頭5分で泣いてしまうとは。

 それと、終盤の展開は『ミュウツーの逆襲』と重なる部分があるように感じました。
 『エンテイ』の中盤では、結晶塔が幻想の世界であることが強調されます。「ここは幻だから何でもありだ」という感じの台詞がタケシとカスミから発せられます。そんな幻想の世界でエンテイに対峙したとき、サトシは「俺のポケモンは皆、俺が旅をして出会った仲間なんだ!」と言い放ちます。ミーはこの後「私の友達はここにいる!」とポケモンを作り上げますが、サトシにとってポケモン達はそんな即席で代替の利く存在ではなく、現実世界で共に苦難を乗り越える"経験"をした仲間なのです。そして、サトシの台詞を聞いたとき、ミーはハッとした表情をします。僕はこのシーンで『ミュウツーの逆襲』のとある解釈を思い出しました。

 それは、にじんじ所属Vtuber卯月コウさんによる解釈です。曰く、「ニャースの喋りはコピーできなかった。それは、ニャースが喋れるのは"経験"によるものだから。経験こそが人生であり、アイデンティティである。だから、生まれたばかりのミュウツーにはアイデンティティが無い。ミュウツーは"経験"でアイデンティティを作るために、生きるという結論に至った」(上記動画の1:31:48~から)
 ミーは結晶塔という幻想の世界で、失った父親を取り戻し、母親を得ることで満足していました。父親のいない現実が耐えがたいから。しかし、父親も母親も所詮は幻想であるため、やはりミーは孤独です。そんな彼女に対し、サトシが提示した答えは"経験"でした。共に苦難を乗り越える"経験"をした仲間がいるから、理不尽に立ち向かうことができる。そんなサトシ達の姿に将来の展望を見出し、ミーは現実へ戻ることを決意するのです。「外に出ると喧嘩もすれば、仲間もできる。いっぱいね」とタケシとカスミも背中を押します。
 結晶塔では身体だけが一気に成長したミーですが、現実で少しずつ"経験"を重ねることで、きっと素敵な人間に成長することでしょう。そして、彼女は結晶塔のポケモンバトルで共に戦った(同個体ではないかもしれませんが)ヒメグマと一緒にいます。"経験"を積むことで、ヒメグマとも大切な仲間になれることでしょう。
 ……聞いてて耳の痛い話ですね。僕は人生経験が浅く、身体だけが大人になってしまった幼稚な人間です。

 『ミュウツーの逆襲』で描かれた"経験"とアイデンティティが、それから『ルギア爆誕』のラストでサトシを気遣う母親の姿が、本作に連綿と受け継がれているように感じました。
 そして、本作のエンテイとミーのような"ポケモンと人間の親子関係"が最新作『ココ』でも描かれます。


『ココ』に期待すること

 この初報PV、かなり衝撃的でした。

 例年であれば、劇場版名探偵コナンのようにカッコいいサブタイトルが付くのですが、今作はシンプルに『ココ』。しかも新ポケモンのザルードではなく、人間であるココに焦点を当てたタイトルです。映像でもザルードの姿は一切映っておらず、ココが中心です。

 僕が最後に映画館でポケモンを観たのは『ゲノセクト』です。その後は「最近のポケモン映画はエンタメに特化していて、初期のようにテーマの込められた作品がー」とぼやき斜に構えるオタクと化したのですが、だからこそ本作は気になりました。『ココ』。これは制作側もかなり攻めているなあと。
 最近Youtube上で『マナフィ』『ミュウツー』が無料上映された(どっちもボロ泣きしました)ことにも後押しされ、『ココ』は映画館で観ることを決意しました。

 そんな訳で公式サイトのあらすじを読んでいると、ふと気になる記述を見つけました。『(前略)ザルードは、森の掟に反して、赤ん坊をココと名付け、群れを離れてふたりで暮らすことを決意する』という部分です。
 伝説ポケモン=孤高の存在というイメージがありますが、ザルードはそうではなく、群れという社会・集団・共同体に属していたんですね。で、そこから離れたと。脱サラしたのです。

 (ここからは僕の妄想ですが)群れの一員として森の掟を守り続けていれば、ザルードの正当性——言い換えれば"生きる意味"は群れから保証されます。が、森の掟を破って群れを離れたとなれば話は別です。誰も保証してくれません。ザルード視点からすれば、自分の行動は正しいのか葛藤が生まれるでしょう。ポケモンとして人間を育てることは正しいのか、そして、それはココにとって幸福なことなのか。
 ココも似たような事情を抱えています。ココは自分がポケモンはなく人間であることを知ります。自分は人間として生きることが正しいのか、だとすれば自分をポケモンとして育てた父親は間違っているのか。やはり誰も保証してくれません。その狭間で揺れるココはやがて反抗期を迎えることでしう。
 旧約聖書のアダムとイヴが、知恵の果実を食べたことで楽園から追放されたように、ザルードとココは自分達の居場所を失います。「我々は自由の刑に処されている」なんて言葉がありますが、敷かれたレールの外を歩くのは確かに意外と大変なものです。
 現実的な解決方法は、人間としてどう生きるか、ポケモンとしてどう生きるか、といったしがらみから逃れて、自力で答えを見つけることです(きっついだろうなあ……)。で、そこにサトシ。壁になりたいオタクのように二人をただ眺めることもできますが、彼が主人公である以上何らかの介入をするでしょう。共に答えを見つけるか、あるいは『エンテイ』のように、サトシと仲間達の絆がザルードとココに影響を与えるか。そんなストーリーを想像しました。

 以上、ここまで全て妄想。ここまで長々と事前予想を書きましたが、どんな映画にせよ色眼鏡は外して観るべきです。そこだけは本当に気を付けないと……それでも、作品のテーマ、素晴らしい楽曲の数々、PVでも伝わるココ役・上白石萌音さん(『君の名は。』の三葉役)の熱演を見ていると、よっぽど調理法を間違えない限りは佳作以上にはなるはずだと思ったりはしますが久しぶりの映画館でのポケモンなんだから、童心に帰って思いっ切り楽しみたいですね。

 最後に。ポケモン映画は、『結晶塔の帝王エンテイ』『幻影の覇者ゾロアーク』のように"親子愛"を主題にした作品があります。同じテーマを描く『ココ』は新時代のポケモン映画としてそれをどう描くのか。最近のポケモン映画を観ていない僕だからこそ、そして『エンテイ』を観た直後だからこそ期待は高まるばかりです。楽しみ!!

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