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14年越しの決別と解呪――『ニューダンガンロンパV3』感想

 14年前、当時中学生だった私は『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』にドハマりしていた。当時初めて買ってもらえた携帯ゲーム機PSP、そしてYouTubeで偶然目にした本作のプレイ動画。小学生の頃から推理ゲーム『逆転裁判1~3』に触れ、多感なお年頃だった時分、本作を手に取ったのは今にして思えば必然だったのだろう。

 オモチャを買い与えられた子どものように夢中になり、周回プレイ。なけなしの小遣いをはたいてグッズも限定BOXも購入。友人に布教もした。続編『スーパーダンガンロンパ2』も勉強の合間にコツコツとプレイした。子どもの頃に夢中になって遊んでいたゲームは何かと問われれば、私は真っ先にダンガンロンパシリーズの名を挙げる。それほどの熱中ぶりだった。

 しかし、正統続編である『ニューダンガンロンパV3』は発売から数年以上経ってもプレイしていなかった。これには「無印アニメの出来がイマイチだったので急激に熱が冷めた」「PSVitaではなく3DSを買った」「うっかり"あのオチ"を少しだけ知ってしまった」など様々な理由がある。よくある「何となく観るタイミング逃しちゃったなんだよなーこの作品」というやつで、いつしかダンガンロンパは私の中で「思い出の作品」として頭の隅に追いやられていた。

 その認識が切り替わり、V3をプレイしようと思ったきっかけは――

 「ダンガンロンパの動画配信は1章まで」という鉄の掟が解禁され、多くのストリーマーが実況配信を始めたことだ。

 無印の発売から14年。実に14年。生まれたばかりの子が成長を遂げ、中学受験に勤しみ始める程の歳月。オタクカルチャーが当時より圧倒的に人口に膾炙し、コンテンツが飽和している現代。それでもなお他作品の山々に埋もれず、ダンガンロンパはたくさんの人々に愛されている。その事実が衝撃的だった。嬉しくて仕方がなかった。にじさんじのライバーさん達の配信を見た。やはり初見の反応は飯がウマい。当時では気づけなかった新発見も多々あった。こうして私にとって、ダンガンロンパシリーズは「思い出の作品」ではなく、「現代に根強く生きる作品」として蘇った。

 ちゃんと自分の手でプレイしたい。そう思った。居ても立ってもいられず『V3』を購入。ゲーム機はPSPからSwitchへ。当時年上だった高校生達は、今やすっかり年下。懐かしいような、感慨深いような、くすぐったいような。様々な思いが去来する。10年来のシリーズだが割とサクサク進んだ。「ああ、この感覚……やっぱり身体が、魂が覚えてるんだ……」と手が震えた。当時のように、寝食忘れるほどに夢中でえっちなイベントを回収プレイしました。

 ……と、長々と思い出話から始めたり、太字で強調したりした理由は、きっと既プレイの方ならおわかりいただけるでしょう。ダンガンロンパを愛していた中学生が大人になり、14年越しに"あのオチ"を見届けることが、どれほど壮絶なものであるか。以下、長めの感想です。よければお付き合いください。

(※最終話までのネタバレを含みます。未プレイの方は完走したらまた会いに来てくれよな!!👍)











探偵の呪い――真実の不可能性、ヴァン・ダインの二十則

 『V3』は二つの呪いを描いた物語だと感じた。一つ目は「探偵の呪い」。より正確に言えば「探偵は真実に到達できない」という呪いだ。

 本作をプレイしていて真っ先に思い浮かんだのは、後期クイーン的問題の1つ目「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」だ。たとえば第1話時点において、「探偵」である最原終一が最終的に提示した真実は「天海蘭太郎を殺害した犯人は赤松楓」だ。まだコロシアイゲームの内側にいた最中ゆえに、入手できる証拠品には限りがある。おのずと判断には限界があった。こうして「探偵」が導き出した真実に従い、赤松楓はオシオキされることになった。

 しかし、コロシアイゲームの外側、いわば第1話のメタ視点が与えられた第6話では、この真実が誤りであったことが発覚。首謀者である白銀つむぎは、秘密通路と隠し部屋を利用してアリバイを作り、天海を殺害。砲丸とモノクマパッドはすり替えられたものだった。

 証拠品Aを掴まされ、後に証拠品Bを入手。「天海蘭太郎を殺害した犯人は白銀つむぎ」という真実を新たに導き出した。最原たちはこれを突破口として、「学級裁判は公平じゃない。ゲームとして成立していない」と黒幕を糾弾するが――最原自身にも同じことが言えるだろう。「探偵」が今、そして今まで導き出してきた答えは真実か? 我々プレイヤー(神)視点では、回想シーンにおけるスチルやクライマックス推理が表示されることで、紛れもない真実であることが一応は担保される。しかし少なくとも、作中における最原や観客の視点では、天海の事件のように証拠品が偽装され、犯人がでっち上げられた可能性を捨て切ることはできない。犯人の自供すらも植え付けられた記憶かもしれない。疑い出せばキリがない。となれば、最原が築き上げてきた推理は、全て根本的に否定されることになる。

 実際、形式上は全ての真実を明らかにした最後の学級裁判を終えた後も、最原たちは「この世界がフィクションという事自体も白銀の嘘かもしれない」「結局どこからどこまでが嘘なのかわからない」という旨の発言をする。コロシアイの連鎖を終わらせるために投票を棄権するという思考さえも、植え付けられたもの(フィクション)かもしれない。確かなことは何ひとつわからない。白銀つむぎが言ってたことは嘘、というのは嘘、というのも嘘……と仮定し続ければ、無限後退に陥る。

  この不確実さは最原の推理だけではない。王馬小吉という人物も似たような描き方がなされた。彼は自己言及のパラドックスを体現したような嘘つきだ。死に際で本心を吐露したが、その言葉すら嘘かもしれない。「王馬は心の中で本当は何を思っていたのか」という真実には結局誰も到達できなかった。王馬本人にすら分からなかったのかもしれない。

 こうした真実の不可能性を前提とした上で、「探偵」は選択する。本当にその人物がクロであるかは担保され得ないにも関わらず、「探偵」はそれを真実として扱い、仲間達に投票を促す。これは後期クイーン的問題の2つ目、「作中で探偵が神であるかのように振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」をどことなく彷彿とさせる。第2話でクロとして追い詰められた斬美は「すべて、貴方の想像でしかないわ! 虚無をまとった空論よっ!」「そんな独りよがりの真実に、みんなの命は預けられないわっ!」と叫ぶが、あながち間違いではない。見方や立場が違えばエゴイズムの極みである。

 この点について、最原は第4話で「このゲームにおいて、探偵が才能を発揮できるのは人が死んでからだからね。探偵が本当の意味で誰かを救う事なんてできない…力を発揮できるのは、すでに手遅れになった後だ。」と発言している。

 かの有名なヴァン・ダインの二十則では、第六則に「探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない」、第七則に「長編小説には死体が絶対に必要である」と記されている。殺人事件の真実を明らかにすることが「探偵」に与えられた役割である以上、コロシアイを未然に防ぐことはできない。

 実際、「探偵」である最原が最後まで生き残ったのは、白銀つむぎのシナリオ通りなのだろう。学級裁判には「探偵」の存在が必要不可欠だ。最原終一になる前の少年がオーディションで語った話によれば、超高校級の探偵がクロという展開は今までなかった。これもまたヴァン・ダインの二十則、第四則「探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない」を思い起こさせる。

 探偵は作中において真実に到達できない。全ては実在性が疑わしいフィクション。「真実はいつもひとつ!」ではない。加えて、そんな状態で仲間の命運を握っている。ダンガンロンパシリーズにおける、「探偵」の推理や行動は正しいという暗黙の前提を根底から覆し、そして「探偵」に課された宿命すら描いている。そんな物語であると私は解釈した。


ダンガンロンパの呪い――コロシアイの連鎖、巨大な怪物

 二つ目は「ダンガンロンパの呪い」。「コロシアイゲームを望む観客がいるからダンガンロンパは永遠に続く」という呪いだ。

 これは、卯月コウ氏が実況配信で「んほり手達の夜」と考察していたことがそのまま当てはまるだろう。観客(プレイヤー)である我々は、オシオキやコロシアイに胸を痛めながらも、そこにいるのが記号的に表現されたフィクションのキャラクター達であるからこそ、嬉々としてそのエンターテイメントを享受している。

 これに重なるような外の世界の実態が、6話終盤で明かされる。ダンガンロンパは究極のリアルフィクション。ゴフェル計画も超高校級狩りも、全ては「設定」に過ぎない。記憶の捏造によって参加者に植え付けられたもの。最原を含む16人がコロシアイを繰り広げる模様は生中継されており、世界中のファンが熱狂している。今回のゲームは5(V)3作目。それほどの人気を博しているコンテンツであり、記憶が改竄される前の最原たちは、自ら望んでオーディションに参加した。コロシアイを見たい、したい、そんな人々の飽くなき欲望の渦が、ダンガンロンパシリーズを生み出し続けている。極めつけに、無印やスーダン2の登場人物達(のコスプレをした白銀つむぎ)の口から「ダンガンロンパはフィクションである」と告げられる。

 一連のメタ描写について、やはり色々と思うところがあるが……不満を書き始めたら止まらなくなってしまったので割愛します。ここでは『V3』と似たようなメタ構造を持つミステリ小説、東野圭吾の『名探偵の掟』を紹介したい。

 本作はミステリ小説短編集。登場する名探偵や刑事は、自分が小説の登場人物であることを自覚しており、ミステリの作法に従って行動する。大河原警部は事件現場で名探偵天下一に出くわすと、「素人探偵の出る幕ではない。引っ込んでいなさい」とお決まりの台詞を言い、その名探偵も事件現場を調べると、これまたお決まりの密室宣言を行う。なぜか。読者がそれを求めているからだ。ウケがいいからだ。「やれやれまた密室トリックか」「大半の読者はちゃんとした推理なんかしてませんよ」などと呆れながら、時には「あなた、本当に密室殺人事件なんか面白いんですかい」と読者に語りかけながら、彼らは何度も何度も「刑事」「名探偵」という役割を演じる。

 とある話では、大河原警部はミステリ小説を原作としたテレビドラマの登場人物になる。しかし、ドラマの内容は視聴者層に合わせて、肝心なトリックはお粗末なものに改変され、視聴率を取るために恋愛要素やお色気シーンが追加されており、原作小説にあるミステリとしての意味や作法は徹底的に解体されている。また別の話では、奇を衒うために突拍子もないオチを用意し、それが読者から不評を買ってしまう、という結末を辿る。いわばミステリの作法やあるあるネタを詰め込んだ痛快な小説だ。

 私は『V3』終盤で何となくこの作品を思い出した。ダンガンロンパの作法。16人の高校生、コロシアイ、学級裁判、オシオキ、終盤の超展開。白銀つむぎは模倣犯コスプレイヤーとして、その作法を模倣してダンガンロンパV(5)3を作り上げた。それを望む多くの観客がいるからだ。模倣と再生産を繰り返し、過激な展開や意外性を求める観客の飽くなき欲望に応えるために、コロシアイが起きる状況や、あっと驚く展開を用意しなければならない。

 ……しかし、それにしたって初回の殺人を「学級裁判なしで卒業できる」とするのは、いかがなものか。確かに意外性はあるものの、あまりにもこのゲームの本質を見失っている。しかも慌てて殺人事件を起こし、アンフェアな推理を行なわせて、赤松楓に罪を着せたのだから、KPキーパーとしての手腕も問われる。仮に終盤のメタ展開が白銀つむぎのシナリオ通りだったとして――ダンガンロンパという作品の性質上、シリーズを重ねれば重ねるほどに、こうした荒唐無稽さ、ムチャクチャさは増すばかりだろう。そうして杜撰で、模倣的で、空虚なコロシアイだけが続く。

 これまでの登場人物達を模倣して「兄弟の契りもただの設定でしかない」などと言わしめるのは、物語が氾濫し、暴走し、ひとりでに動き始め、現実に侵蝕していることを暗に言っているのだと感じた。いわば、ダンガンロンパという巨大な怪物に、キャラクターも、クリエイターも、観客も支配されている。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。

 ――などなど、想像を膨らませてますます強く実感したのは、制作陣の「本作で責任を持ってダンガンロンパ本編を終わらせます」という優しさと明確な殺意だ。最後の学級裁判終了後、最原は「僕らの死や想いを軽んじたお前は、フィクションさえも軽んじていた! そんなお前が作るフィクションなんて、もう誰も見たくないって事だ!」と白銀つむぎを糾弾する。観客やチームダンガンロンパをあえて露悪的かつ誇張して描いているのも、後ろめたさを前景化するためであると考えれば腑に落ちる。

  当然だが、クリエイター陣はキャラクター達のことを誰よりも愛している。「続編を求める声にうんざりしたからこれを作りました」といういい加減な動機だけでは、ここまで物量のある作品を作れるはずがない。

 ダンガンロンパと、それを取り巻く環境が抱える問題やジレンマ。後ろめたさ。語れば無粋であり、ファンの愛を裏切る、台無しにする行為になりかねない。しかし、その反応すらも想定した上で。単なるファンサービスとしての続編ではない。シリーズの未来を見据えて、ここで終止符を打つためにV3を生み出した。そんな風に思えてならない。


呪いを解く物語

 ①「探偵は真実に到達できない。活躍できるのは仲間の死後だけ」 ②「コロシアイゲームを望む観客がいるからダンガンロンパは永遠に続く」――以上、この二つの呪いはどう解呪されたか。

①嘘(フィクション)を真実にする、探偵として死を選ぶ

 第5話のクライマックス推理では「顔のない死体は王馬小吉」という結論に至った。しかし、この事件の真実はモノクマですらわからない。この局面において、最原は「ここから先はもう推理じゃない! 僕がどこまで信じるかだ!」「僕は百田くんを信じる。探偵としてじゃなくて…最原終一としてだ」と決意を抱く。推理によって真実を明らかにする「探偵」であることを放棄し、ひとりの人間として百田を信じることにした。そして、ゲームを台無しにするという王馬の目的を達成するために、推理で築き上げた「真実」を「嘘」でちゃぶ台ごとひっくり返す。僕は王馬くんに脅されていた、と嘘の告白をする。

 この場面の後、最原は王馬小吉の言動を振り返り、「見る角度によって答えが変わって、どう捉えるかは受け取る側の僕ら次第」であることが「嘘」の本質だと悟る。実際、正規ルートにおける偽証システムは、いかに受け手側にもっともらしく聞こえる嘘をつけるかどうかが、勝負の鍵となる。

 「受け手側がどう捉えるか」が肝要。この点を踏まえて、最原は6話終盤において、受け手側である外の世界の人間に訴えかける。たとえ自分の記憶や思考が捏造されたフィクションであろうと、この想いは本当だ。僕らは生きている。そう訴えかけることで、外の世界にいる人々の意思を変え、キーボに投票を放棄させることに成功する。まさに、これまで「嘘」を「真実」にしてきたように、「フィクション」を「現実」にした。

 また、6話終盤では最原だけでなく、キーボ、夢野、春川をプレイヤーが操作する場面がある。最原は「探偵」であることを辞めた。ダンガンロンパの主人公として「希望」も「絶望」も選ぶことを放棄した。だからこそ全員が主人公になって立ち向かう。これもまた、ヴァンダインの二十則、第九則「探偵役は一人が望ましい」を意図的に破った描写であるように思える。

 「探偵」が真実に到達できないなら、活躍できるのは仲間が死んだ後であるなら。「探偵」であることをやめる。真実を嘘で上書きする。推理するのではなく、ただ信じる。死体を捜査するのではなく、未来永劫続くコロシアイを止める。すなわち、これは最原終一が「探偵」としての実存的な死を選び、呪いを解いた物語だ。

 無論、これは最原だけで辿り着けた選択ではない。最原がキーボに反論ショーダウンで斬りかかる時、流れる曲は、赤松が最原に聞かせたいと語っていたドビュッシーの『月の光』。嘘をついてでもみんなを信じさせた赤松、自分が信じたいもののために突き進んだ百田、そして最原と同じ道を目指した春川、夢野、キーボ。彼らがいたからこそ、「探偵」に背負わせていた呪いに手を伸ばしたからこそ、長い夜の闇は払われ、解呪は成し得た。

 そして、探偵の呪いを解いた一連の行動が、ダンガンロンパの呪いを解くことにも繋がる。彼はハッキリと「ダンガンロンパを否定するっ!」と言ってのける。


②観客自身の手で終わらせる

 最後の投票で決め手になったのは、外の世界の意思だ。「このフィクション世界のすべてを破壊し、コロシアイを終わらせる… それが…外の世界の意思なんです。」とキーボは語る。プレイヤー自身も、ノンストップ議論や閃きアナグラムでの操作を放棄することになる。そして最終的に、コロシアイの舞台であった才終学園は徹底的に破壊し尽くされる。

 「希望」と「絶望」の戦いを本当の意味で終わらせるのは――なんてことなない、観客である我々自身がダンガンロンパを、コロシアイの連鎖を終わらせることだったのだ。シリーズの終焉をプレイヤーの手に委ねる。これは悪趣味であると同時に、ファンサービスでもあると感じた。私自身の手でケジメをつけることができた。本作にはセルフパロディ要素が多いが(たとえば4話の「みんなを守るため」という動機やアルターエゴのオシオキは歴代4話と一致。プログラム空間はスーダン2)、これはV3だけではなく、シリーズ全体を瓦礫の山にする意図も込められているのだろう。

 無論、最原たちがこの選択をしたこと自体が、全ては白銀つむぎのシナリオ通りなのかもしれない。作中世界では今後ともダンガンロンパシリーズが続いていくのかもしれない。しかし少なくとも、エピローグで最後に浮かび上がる文字は――


「ダンガンロンパ The END」


 そう、14年前の『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』は終わってすらいなかった。むしろダンガンロンパシリーズの始まりを告げる狼煙だった。――そして今、目の前に現れたこのエンディングこそが、本当の本当の終わり。その驚愕と喪失感。茫然としながらコントローラーを置いた。ダンガンロンパを愛していた中学生は、大人になってようやく見届けた。シリーズの終焉を。全ての呪いが解かれる様を。


完走した感想

【細かい感想】
・UIや演出は前作からさらに進化。議論スクラムを突破する爽快感、形式上は真実を明らかにする学級裁判で「嘘」をつく偽証システムの背徳感。ゲーム体験として純粋に良かった。
・本業のミステリ作家(北山猛邦)さんが関わっていることもあって、物理トリックの完成度はお見事。4話ではVR空間特有のギミック、5話では顔のない死体を活かした入れ替えトリック。どの事件も学級裁判後半まで犯人がわからなかった。
・5話。KPであるモノクマすら欺き、ゲームの外側に干渉する激熱展開。最後の最後まで王馬小吉は「王馬小吉」であり、百田解斗は「百田解斗」だった。
・真っ先にハルマキちゃんのパンツを回収した。歴代で一番好きなキャラ。

 あまりにも壮絶だった。良くも悪くも「よくぞここまでバカ正直に描いたな……」と思える作品でした。手放しで称賛するつもりはない。なんせ数年ぶりに思い出の遊園地を訪れてみたら、着ぐるみが突然ぱかっと頭を外して、中の人から「お前が見てるの全部作り物やで!w」と言われてお説教が始まったようなものだ。言わずが花だ。無粋だ。うるせえ。こちとら、そんなものは織り込み済みで楽しんどるんじゃ。アホアホアホアホアホー!

 しかし、この台無し加減すら意図された設計であることは伝わった。もっと暗喩レベルに留めて、こざっぱりとした作品に落とし込むこともできたはずだが、それではどうしても伝えきれない部分が多いだろう。ダンガンロンパを徹底的に破壊して終焉を迎えさせる。前二作からさらにブラッシュアップされた演出やシステムも含めて、作り手の情熱を確かに感じ取ることができた。

 ……と、これも私が勝手にそう感じているだけのことで。本当はファンに一泡吹かせるためだけに制作されたのかもしれない。元から悪趣味な作風ではあるのだから。結局は最後の最後まで、私はV3制作スタッフの「嘘」に踊らされているに過ぎない。そこにクリエイターとしての愛があったのだと「信じる」しかない。それを「真実」とするしかない。不思議なもので、ここまで複雑な心境にさせられているのに、歴代シリーズで一番好きな作品だと思っている自分もいる。14年越しのカウンターパンチと偏屈な愛を同時に叩き込まれたような、不思議な感覚に包まれている。これは二度と味わえないゲーム体験だろう。

 せっかくなのでクリア後要素もちょこっと触れてみます。近いうちに『超探偵事件簿 レインコード』も遊んでみる予定。あらすじを見る限り、さっそくヴァン・ダインの二十則、第八則「占いや心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない」を意図的にぶち破ってる。やっぱこういう作風なんやなって。

 話が逸れましたが最後に。思い出話から始めたので、思い出話で終わりたい。6話終盤。帽子を被った黒髪の少年は、オーディションでダンガンロンパへの憧れや、自分が考えたトリックやオシオキを、初々しくも熱い口調で語った。私はそんな彼の姿に、ダンガンロンパの虜になった中学生である14年前の私自身を重ねた。懐かしいと思った。学級裁判、千本ノックのオシオキ映像が強烈に印象に残り、すぐに近所のゲームショップまで買いに行った。布教して友人と語り合った。きっとこの少年もそうだったのだろう。わかるわかる。やっぱり妄想するよなあ、ぼくがかんがえたさいきょうのオシオキ。

 しかし、少年は最原終一になった。ダンガンロンパを否定した。53作分の呪いを解いた。彼の想いを「真実」にするためにも、私がダンガンロンパのコロシアイを望むことはもうない。何となく本作をプレイする機会を逃し続けていたが、むしろ今このタイミングでよかったと思う。14年分の重み。今だからこそ、この喪失感に、どこか清々しい思いすら抱くことができる。

 奇しくも3月。卒業シーズン。今、私は彼らと共に、14年越しにコロシアイ修了式を迎える。この「ゲーム」をプレイし終えたことで、今になってようやく、本当の意味であの言葉を言えるのだ。さよならダンガンロンパ。さよなら48人の高校生。さよなら――










「さよなら絶望学園」