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冬来たりなば春遠からじ——杜野凛世「ロー・ポジション」コミュ考察・感想【シャニマス】

 2021/3/22、杜野凛世pSSR【ロー・ポジション】が実装されました。シャニマス2ndライブが終わり、新ユニットSHHisの発表がファンに大混乱をもたらした翌日に実装されました。シャニマスくん、お前さ、そんな過剰供給すんの……反則。おかげさまで情緒がぐちゃぐちゃになりました。
 実装当日の状況はさておき。ロー・ポジション、やばいです。ギミックの量が尋常じゃない。凛世Pである私なりの考察・感想を本記事にまとめます。

(※本記事は「ロー・ポジション」および凛世関連コミュのネタバレを含みます。未読の方はご注意を)


[映すもの]映るもの——"見る側"と"見られる側"の逆転

 「ロー・ポジション」では"見る側"と"見られる側"が有機的に入れ替わり、お互いに新たな一面を知っていく過程が描かれます

 まず第1話「知らぬ顔」。プロデューサーはフードコートで女子高生達の会話を耳にし、その中に凛世がいることを知る。「やばいです」と笑い合ったり、ナゲットをあーんしてもらったり、普段はお目にかかれない彼女の姿を見たことで動揺を覚える。これはラブコメあるあるですね。普段は学校でしか会わないヒロインを街で偶然見かけて、私服姿にドキドキしちゃうやつです[要出典]

 この時点では、プロデューサーは"見る側"でした。しかし、席を立った凛世と顔を合わせたことで"見られる側"に転じます。同様に、凛世は"見られる側"から"見る側"に転じます。

知らぬ顔2

 プロデューサーは図らずも凛世を"覗き見て"、その行為を本人に"見られた"ことで引け目を感じる。そして、"見た"ことで「……はは あるんだなぁ 凛世にもこういう時間————」と凛世の新たな一面を知った(選択肢「……今、帰りか」)
 一方、凛世は仕事場外のプロデューサーを"見た"ことに驚き、同時に彼に"見られていた"ことを意識する。騒がしくて迷惑をかけていないか不安になり、口元にケチャップがついているあられもない格好を"見られた"ことに羞恥心を覚える(選択肢「……楽しそうだな」)

 このシーンにおける二人の心境は、見る側と見られる側が容易に逆転したり、見る側は積極的に意味付けを行ったり、見られる側は不安を覚えたりといった、哲学用語で言う「まなざし」が巧みに表現されています。人間は見ることで意味付けし、見られることで意味付けされる生き物なのです(主語がでかい)

エキジビショニスト(露出症者)やヴォワイユール(覗見症者)などといった倒錯者の行為は、「見たいという欲望」と「見られるという不安」との奇妙な混淆をあらわしているのである。「見ること」と「見られること」の関係はサルトルの存在論の基礎にもなっているが、この視線の弁証法ともいうべきものこそ、人間が意識的存在であることの何よりの証左であり、植物や動物のセクシュアリティと、人間のそれとが決定的に異なっていることの理由なのである。
「エロティシズム」p.10 澁澤龍彦, 中公文庫

 続く第2話「芽ぐむ頃」。プロデューサーは"見られる側"になります。凛世は酒の席で、取引先の部長から酒を注ぐよう要求される。しかしどうも雰囲気が良くない。見兼ねたプロデューサーが割って入り、彼女の代わりに酒を注ぐ。プロデューサーに迷惑をかけてしまったと落ち込む凛世に対し、プロデューサーは気に病むことはないと励ましながらも、複雑な心境を吐露する(選択肢「ごめんな」)

プロデューサー
「難しいな、凛世
 年齢も性格もバラバラの、たくさんの人と仕事をしてくって」

凛世
「……
 プロデューサーさまも……悩まれるのですね……」

プロデューサー
「迷ってばっかりだよ
 ……あぁ、こんな頼りないこと、言うべきじゃないな」

凛世
「いえ……
 では……凛世も……
 お隣で……
 迷わせてくださいませ……」

 プロデューサーは悩む姿を"見せてしまった"ことに不甲斐なさを感じる。凛世はそんな彼の姿を"見た"ことで、「プロデューサーさま……悩まれるのですね……」と親近感を覚えて、「では……凛世も……お隣で……迷わせてくださいませ……」と寄り添おうとする。

 第3話「春雪」では、プロデューサーは再び"見る側"へ転じます。まだ寒さが骨身に沁みる3月、プロデューサーは明朝に凛世を迎えに行くことになる。凛世はプロデューサーを労るために、早起きして味噌汁を作ることにした。迎えた当日朝、寮に辿り着いたプロデューサーは味噌汁の香りに釣られて台所に向かう。ガシャ演出はこのときの様子。戸の隙間から凛世を"覗き見る"という構図から始まります。

スクリーンショット 2021-03-22 21.16.10

 このガシャ演出がまた肝。"覗き見る"という行為は、萌えやエロティシズムに深く関わりがあります。

サンキュータツオ:
萌えっていうのは「観察」にその醍醐味がある。「萌えとは無作為の覗き見である」と僕は定義してる。誰にも見られてない、カメラもないなかで彼が本当にどういうことをしてるのか、彼女がどんな行動をしてるのかっていうね、それを人物として介入するんじゃなくて、定点カメラで観察することが、実は「萌え」なんです。
[……]職場では、あまり隙を見せないあの人が、家で一人で誰もいないなかでお母さんと話しているときだけ気もそぞろに無意識にこういう行為をしている! 「この人、意外とこういうところあるんだ! かわいいじゃないか! できる子じゃないか!」と。
「俺たちのBL論」p.109-110 サンキュータツオ, 春日太一

スクリーンショット 2021-03-23 0.09.27

 イラストではプロデューサーに笑顔を向けるのではなく、プロデュサーがいることに気づかないまま料理に打ち込んでいる姿が描かれています。人物として介入するのではなく、定点カメラで自然な仕草を観察するような構図。家庭的という普段はお目にかかれない一面を、視覚的に表現する上で最も適した演出だといえます。100点!!!

 こうして、プロデューサーは凛世の新たな一面をまた"垣間見た"。繰り返しになりますが、「ロー・ポジション」ではこのように、見る側と見られる側が有機的に変化し、お互いに新たな一面を知っていく過程が描かれます。
 思い出アピール名は「[映すもの]映るもの」——凛世はプロデューサーの目に映るものであると同時に、彼女の瞳はプロデューサーを映すものである。そんな有り様を言い表しているのではないでしょうか。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。


「ロー・ポジション」の意味——合わさる目線

 話は飛んでTrueコミュ「木に花咲き」。その前に「ロー・ポジション」の元ネタについて。これは撮影用語で、カメラが普段の目線より低い位置にある状態を指しますローポジションで撮影すると、私達が肉眼で見ている光景とは異なる印象の写真を撮ることができます。

 こちらのサイトに分かりやすい実例が掲載されています。地面に咲く小さな花々を箱庭のように映す、山の斜面や木々の高さを迫力のある構図で映す、といったことができます。

 カメラの高さが変われば被写体の映り方が異なる。世界が違って見える——これは凛世とプロデューサーの関係を表しているのではないでしょうか

WING優勝

 W.I.N.G.優勝後、プロデューサーは凛世にステージの感想を訊ねる。すると、凛世は上記のように詩的な表現で答える。それを聞いたプロデューサーは「そうか……すごくいい体験をしたんだな、凛世」と返す。「俺も同じものを見たよ」ではない。
 プロデューサーの目線を基準にすれば、凛世はロー・ポジションです。身長差・経験の差・奥ゆかしさなど色んな意味で。カメラの高さが変われば被写体の映り方が変わるように、二人は同じ光景を目に映していても見え方が異なるのです
 だからこそ、すれ違いも生じる。プロデューサーはその立場上、一線を引いて凛世に接するが、凛世は思い人としてプロデューサーに接する。「われにかへれ」でプロデューサーとの写真を撮ろうとしたり、お土産を買おうとしたりする凛世だが、プロデューサーはことごとく断る。立場上断らなければならない。「ロー・ポジション」は、プロデューサーとアイドルという二人の距離感も表現していると考えられます。Trueコミュでフェンスが映し出されるのは、二人が無意識に抱えていた心理的障壁を暗喩しているように思えます。

Trueコミュ2

 二人の目線の違い。これを踏まえて第1話から振り返ると——

ローポジション・ローアングル

 序盤からカメラが頻繁に切り替わり、床や地面が何度も映し出されます。これはハイアングル、見下ろす構図です。プロデューサーは凛世より目線が高い。必然的に見下ろす構図が多くなります。

Trueコミュ

 しかし、Trueコミュ「木に花咲き」では一転してローアングル、見上げる構図が増えます。信号機、木漏れ日、街頭。ご丁寧に黒枠が表示されてシネマスコープサイズになります。明らかに何らかの意図が込められています。
 この演出は、プロデューサーが凛世と同じ目線に降りてきたことを表現していると私は解釈しましたプロデューサーの目線が下がった、だから見上げる構図が多くなったのです。
 プロデューサーの目線が下がった——より正確には、プロデューサーは凛世に目線を合わせた。友人達と楽しそうに会話する凛世、早起きして味噌汁を作ってくれる凛世、そんな知らぬ顔を見た。そして「いつが……アイドルで……いつが……そうではないのか……」という言葉を聞き、凛世はアイドルである前にひとりの人間なのだと彼は痛感した。プロデューサーとアイドルという関係から一旦離れて、対等な関係として接することを試みる。「クレープ食べないか アイドルじゃない、凛世さん」と。

 そして、目線を合わせようとしたのはプロデューサーだけではない。凛世もまたプロデューサーに目線を合わせようと背伸びをしていた。大人になればもっと色んなことができるよというプロデューサーの言葉を聞き、大人になりたいと思った(第2話 選択肢「……俺もなんだ」)。プロデューサーを労るために早起きして味噌汁を作った。
 背伸びをしても彼女の背丈では並ぶことはできない。しかし、今はプロデューサーが歩み寄ってくれている。凛世とプロデューサーはお互いに新たな一面を知った。そしてもっと知りたいと思い、共に歩み寄った(こうなると、青信号や歩道と車道の境目が映されるのは暗喩的に感じられる)

われにかへれ2

 前回のpSSR「われにかへれ」の続編としてこの場面を読むと、ものすごい成長ぶりを実感できます。お土産や写真の件でプロデューサーと目線が合わなかった時、凛世は自閉的態度に陥ってしまった。プロデューサーも凛世の行動意図を完全には理解することができず、両者の思いがすれ違ったまま物語は幕を閉じました。
 思えば、凛世とプロデューサーはすれ違ってばかりでした。昨年の凛世を語る上で欠かせないのはG.R.A.D.編と「われにかへれ」。二人がアイドルとプロデューサーという関係に立脚している以上、そこには避けて通れぬ障壁、制限、不文律、意思疎通の困難がある。そんなことを感じさせるコミュでした。「杜野凛世の印象派」では神社の境内で迷子になったり、「凛世花伝」では急な仕事が入ったことで一緒に水族館に行けなかったりしましたが、最近では一緒にいてもすれ違ってばかりです。

 しかし今回の「ロー・ポジション」では、アイドルとプロデューサーではなく、アイドルじゃない凛世さんとプロデューサーさまではないプロデューサーさまとしてお互いに歩み寄った。どちらかが一方的に歩み寄るだけでは、このエンティングには到達できなかったでしょう。
 結局のところ、二人の目線が完全に合致することはないかもしれません。たとえ目線が同じでも、レンズが違うのだから世界の見え方は異なる。しかし、それでも二人は同じ目線で同じものを見ようとした。見ようとすることができた。アイドルとプロデューサーという関係だけで終わらない、それ以上の、ひとりの人間としてお互いに向き合うという新たな可能性を切り拓いたのです
 それが「ロー・ポジション」という題に込められた意味だと私は思います。本コミュを踏まえて、凛世とプロデューサーの関係がどう描かれていくのか。心の奥底により踏み込んでいくことになるので、楽しいものばかりではなくドロドロとした心情も描かれるでしょう。正直怖い。でもやっぱり楽しみです。二人のこれからをもっと見たいと思わせてくれる、素晴らしいコミュでした。

 本記事は以上です。ここまで読んでくださりありがとうございました。


見たい欲求をかき立てるカメラ演出

 ……じゃあないんですよ!! まだまだ仕掛けがあるんですよ「ロー・ポジション」には!!

 コミュ全体を通して、シナリオだけじゃなくてカメラ演出も良い。"焦らし"が上手いんですよ。凛世とプロデューサーが会話をしている最中なのに、床や窓を映すカメラワークがやたら多い。心理描写やTrueコミュにおけるカメラ演出への布石とはいえ、やはり多い。凛世の表情や仕草を見たい、でもこのカメラワークが原因で見れない。押さえつけられるほど欲求が高まる人間の性は、俗的にはカリギュラ効果で説明されるところです。

 見たい欲求が昂ってしょうがない。で、先に触れたガシャ演出に繋がります。見せてくれるんです——ただし"覗き見"という形でチラッとだけ。こうなると余計に欲求が高まるばかりです。
 そして最後の一コマ。コインパーキングが映され、白にフェードアウト、そこから街頭にフェードイン——その後パッと暗転。余韻を残すフェードアウトではなくカットアウトなんです。第1話で「……楽しそうだな」を選択したときも、肝心な所でパッと暗転されます。

 おい!!! 見せろよ!!! びっくりマークみたいに赤いのはケチャップだけじゃねえだろ!! 顔についたケチャップを拭われて、赤面しながら急いで友達のところに駆けて戻ったら「あれ、もりちゃん顔赤くない? もしかして風邪?」と言われて(やばい……)ってしどろもどろになる凛世を見せてくれよお!!!!

 ……いやあ憎い演出。「見たいですよねえ。でも残念、ここから先は見せませんよ^^(ブチッ」ってわけです。クソォ……!!

たとえば、音楽の伴奏に合わせて、悩ましげな姿態を繰り返しながら、一枚一枚、次第に着物をぬいで行き、ついに完全な裸体になるかと思われる一瞬、ぱっと舞台の明かりを消してしまう、あのストリップ・ティーズの技巧は、モーリヤックの言う覗見症的エロティシズムに、最もふさわしい大衆的な見せ物であろう。
「エロティシズム」p.25, 澁澤龍彦, 中公文庫

 こうして見たい欲求がかき立てられるわけですが、これって凛世とプロデューサーの心情に重なるなあと。二人はお互いに新たな一面を知り、もっと知りたい、もっと見たいと思った。
 文字を追わせるだけではなく、洗練されたカメラ演出によってプレイヤーと登場人物の心情を一致させる。具体例はぱっと思いつきませんが、こうしたカメラ演出の工夫は凛世に限らず最近のコミュで数多く活かされているように思います。今後がますます楽しみになりました。

 本記事は以上です。ここまで読んでくださり——


凛世と写真——実在性を実感するための物証

 まだ終わりません。「ロー・ポジション」という題名、今までの凛世のコミュを踏まえると重要な意味を持っています。実は凛世のコミュでは写真という題材がよく登場していました。具体的には——

「百色ふぉとぐらふ」:
 イベントコミュ「五色 爆発!合宿 クライマックス!」の配布sSSR。果穂と合宿中に撮った写真を見るイラスト。

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「われにかへれ」:
 雑誌に提供する『夏の一枚』のために写真を撮る。

クリスマスコミュ&年賀状:
 昨年のクリスマスコミュは写真が関係していたらしい(らしいというのは私が見逃したからです……)。今年の年賀状の「写真が出来上がってまいりました」という一文はこの続き。

「明るい部屋」:
 昨年末の全体イベントコミュ。題名の元ネタは写真に関する思想書。このイベントコミュの配布sSSRに選ばれている。

 後ろ3つは昨年のコミュです(よし、五色爆発は昨年復刻されたから実質全部だな)。そんな流れで実装された今年一発目の凛世pSSRは「ロー・ポジション」という撮影用語。これはもう意図的にやっているとしか思えない。今までのコミュから連綿と続くものとして考えてみます。
 そもそも、なぜ写真が題材になるのか。それは、凛世には現実の出来事を夢のようだと捉える傾向があり、その解決策として写真が与えられていると考えられます。

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 感謝祭の最初のコミュでは、プロデュサーと出会った日からずっと夢にいるようだと語る。感謝祭が終わった後もその心境は変わらなかったが、プロデューサーの言葉を聞いて「現実とは……夢をも……飛び越えた世界……」と語る。

われにかへれ


 「われにかへれ」でもプロデューサーと風光明媚な場所に来たことが現実のようには思えなかった。そこで、現実だと認識するための手段として写真を撮った。つまり、凛世にとって写真は実在性を実感するための物証という意味を持っているのです。写真がそんな効能を持っていることを、合宿で果穂と写真を見たことで無意識に覚えたのかもしれない。

 そして「ロー・ポジション」「[映すもの]映るもの」。ははあ、これはまた凛世の写真論が語られるんだな……と思っていたのですが、写真に関するエピソードは一切登場しませんでした。
 もしかしたら、凛世にはもう写真が必要ないのかもしれません。プロデューサーと過ごす時を現実として認識するために写真に頼っていたが、今では自分の行動を根拠に認識することができる。カメラのレンズにではなく、自分の目にしっかり映す。プロデューサーが抱えている悩みを理解するために近づいた、彼を労るために味噌汁を振舞った。Nowhere(どこにもいない)からNow Here(今、ここにいる)へ——実在性のある"今"を、自分の手で掴むことができる。

 ……という考察に至りましたが、まだ分かりません。また写真が題材になるかもしれない。今後の動向に注目ですね。

 本記事は以上——


「濡れてまいろう」「木に花咲き」の元ネタ

 もうちょっとだけ続くんじゃ。第4話「濡れてまいろう」、Trueコミュ「木に花咲き」の題名には元ネタがあります。

 「濡れてまいろう」の元ネタは、「月形半平太(つきがたはんぺいた)」という行友李風作の戯曲に登場する台詞。舞妓の雛菊が玄関先で「月様、雨が……」と傘を差し掛けるが、主人公である月形半平太はしっとりとした春雨の風情を味わうために「春雨じゃ、濡れて参ろう」と返す。日常では「小雨だから傘ささなくても大丈夫!」を気取って言う時にこの台詞が引用されるらしい。
 第4話で凛世が言及するお侍さまの物語はこの作品と見て間違いないでしょう。幕末の動乱の中、「腰抜け侍」と嘲弄されながらも無益な殺生を頑なに戒める半平太の誠実さは、どこかプロデューサーに重なるものがある。そして、そんな彼を気遣う雛菊もまた凛世に重なる。性別的にも。実際、選択肢「もし、そういう時代でもさ」を選ぶとプロデューサーは「俺は、凛世を守る仕事がいいよ」と語る。しかし——

濡れてまいろう

 半平太の台詞「濡れてまいろう」を言うのは、プロデューサーではなく凛世です(選択肢「……ふたりはどうなるんだ」)。また別の選択肢では「凛世は……濡れても……かまわないのです……」「プロデューサーさまが……そのようなめに……遭うのでしたら……いっそ凛世が……斬られてまいります……」と語る。この台詞を鑑みると立場は逆。雨宿りで隔靴掻痒になるプロデューサーが雛菊であり、雨に濡れても構わないとする凛世が半平太だ。
 この時の凛世の心境を私なりに解釈すると——凛世は雛菊であるよりも、半平太でありたいと思っている。プロデューサーの背中を見守るだけではなく、前へ進んで守りたい、あるいは共に春雨の中を歩きたいと思っている。そう思ったのは、第2話でプロデューサーが悩む姿を見ていたからでしょう。共に同じ困難を乗り越えたいと思った。プロデューサーより早く大人になりたいと語ったのは、彼を守りたいと思ったから。そして第3話では味噌汁を振舞った。こうして見ると、第4話でも凛世がプロデューサーに歩み寄っている姿勢が垣間見れます。

 第2話「芽ぐむ頃」、第3話「雪」、第4話「(雨じゃ)濡れてまいろう」——春にちなんだ題名が続き、そして迎えるのは「木に花咲き」

 元ネタは前田夕暮の短歌「木に花咲き 君わが妻と ならむ日の 四月なかなか 遠くもあるかな」。冬は枯れていた木に花が咲いた。愛しい君を妻として迎える4月が待ち遠しく思える。そんな恋歌です。

 思えば、凛世とプロデューサーはすれ違ってばかりでした。昨年の凛世を語る上で欠かせないのはG.R.A.D.編と「われにかへれ」(中略)まさに冬の時代が到来していたわけです。
 しかし、そんな二人に春の訪れを予感させる出来事が起こる。それが、アイドルじゃない凛世さんとプロデューサーさまではないプロデューサーが生まれること、およびそこに至るまでの過程。「わが妻」とまではいかなくても、二人はプロデューサーとアイドルという関係だけに収まらず、ほんの少しだけ近づくことができた。二人は新たな気持ちで4月を迎えることでしょう。

やばい

 何がやばいって、「ロー・ポジション」「[映すもの]映るもの」という題名に関するギミックだけでも充分面白いのに、そこに春にちなんだ作品も織り交ぜて暖かな情景描写を醸し出し、カタルシスに導いてくれることですよ。二人とも少しだけ勇気を出して、ちょっぴり近づけた。劇的に何かが変わったわけではない。しかし、そんな些細で静謐な変わり様が儚く、愛おしく、読み終えた今もなお心を満たしてれる。暖かな読後感が尾を引く素晴らしいコミュでした。

 そこで僭越ながら、本記事の題名はリスペクトの念を込めることにしました。各話タイトルが春にちなんだものになっていることにあやかり、また凛世とプロデューサーの未来に願いを込めて「冬来たりなば春遠からじ」。意味は——

つらく厳しい時期を耐え抜けば、必ず幸せがめぐって来るというたとえ。寒くて暗い冬が来れば、暖かく明るい春がすぐやってくるというあかしだという意から。イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の一節から。
…………………………
引用元サイト:「冬来りなば春遠からじ」(ふゆきたりなばはるとおからじ)の意味, 故事・ことわざ・慣用句辞典オンライン, 閲覧日2021/3/24


フェスイラスト感想、予想

黒猫凛世

 蛇足ですが、フェスイラストについても語らせてください。こちらは「ふらここのうた」のフェスイラスト。私は黒猫凛世と呼んでいます。可愛さ・艶かしさ・媚態・誘惑・受動的といったコケティッシュなイメージの表象です。

野球凛世

 今回の「ロー・ポジション」も黒猫が題材ですが、様相は異なります。猫の自由奔放さ・野生的・能動的といったボーイッシュなイメージの表象です。構図もどこか対比的。前者が雌猫だとすれば、後者は雄猫。この二枚で猫の二面性を表現すると同時に、「凛世と写真」の章で触れた彼女の成長ぶりを表現しているのかもしれません。

 また、ここから放クラの新しいライブ衣装シリーズが始まると考えたとき、二つの路線が思い浮かびました。野球シリーズか、スポーツシリーズです。
 まず野球シリーズ。今回はバッターボックスに立つ凛世が描かれたので、他のポジションを担う放クラメンバーが描かれる。樹里投手と夏葉捕手のバッテリー、ヘッドスライディングでホームに突っ込む果穂、チアガールとして応援する智代子。そんな絵面が思い浮かびます。
 続いてスポーツシリーズ。凛世は野球担当で、今後は別のスポーツが題材になる。こっちの方がバラエティに富んだ衣装になるので可能性は高そう。それにしてもスポーツって色々ありますよね。サッカー、テニス、バレー、水泳……

 バスケ……樹里……

 いや、まさかな。考えすぎか。何はともあれ、放クラの新しいpSSR実装が楽しみです。ユニット新曲はスポーツ応援歌みたいな感じになるんだろうか。何かと妄想が膨らみます。

 本記事は以上です。思いのほか長文になりましたが、「ロー・ポジション」にはそれほど多くの魅力が詰め込まれており、語り尽くすにはここまでの文量を要しました。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。もうすぐ4月です。気温差や環境の変化で身体を壊さないよう、ご自愛ください。