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これは二人の"物語"――『学漫同人物語』感想【ブルーアーカイブ】

図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、
あくまで自由を守る。

 図書館の自由に関する宣言』に記されている有名な一節です。有川浩の小説『図書館戦争』でこれを知った方は多いのではないでしょうか。うーん、何度見てもめちゃくちゃかっけえな。

 この宣言は、なぜこんなにも断固とした姿勢を見せているのか。その経緯は前文第4条で示されています。

わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。

『図書館の自由に関する宣言』日本図書館協会

 図書館は「知る自由」を保障する場である。しかし、国家権力による検閲など、それを踏みにじられた歴史がかつてあった。あの過ちを二度と繰り返してはならない。「人間および市民の権利の宣言」がフランス革命によって勝ち取られたものであるように、図書館もまた、不断の努力によって「自由」を保障する責任を果たしている。そんな輝く精神と歴史の歩みが物語られているのです。

「「知識解放戦線」は知識そのものの解放のために戦ってるところなんだからね!」

 ――と、そんなことを思い出したのがイベントストーリー『学漫同人物語~2人が求める最終回~』でした。弾圧とクーデターが頻発するレッドウィンター連邦学園、そんな学園の図書館に入り浸る姫木ひめきメルと秋泉あきいずみモミジの二人が――「知識解放戦線」が紡ぐ物語は、その名を冠する通り、文書・創作・思想にまつわる不断の努力の歴史に重なるように思います。近現代史や同人界隈ににあまり詳しくないので、直接の元ネタには辿り着けていないかもしれませんが、以下、私なりに本シナリオを読み解いてみたいと思います。そして、それを踏まえた、このタイトルの美しさについて。


ルナ(Luna)

ここすき

 中盤までの経緯をざっくりまとめますと――メルとモミジはひょんなことから喧嘩してしまう。メルは仲直りのために、モミジがこよなく愛するレジェンド級の名作漫画『ルナ』の最終巻、22巻のプレゼントを目論む。しかし、そもそも最終巻など存在しない。熱狂的なファン達が非公式の二次創作同人誌として、最終巻を執筆しているだけであった。その盛況ぶりたるや、オンリーイベントが開催されるほど。10人いれば、良くも悪くも10通りの解釈がある。それぞれの最終巻の内容は玉石混淆の様相を呈している。

 『ルナ(Luna)』とは言い得て妙ですね。ラテン語で月の意味。文化によってウサギ・カニ・女性の横顔と模様の解釈が異なるように、最終巻の内容はそれぞれの解釈によって異なる。そしてLunaは、Lunatic(狂人)の語源でもある。オタクの狂気的な情熱が数々の最終巻を生み出している。そんなダブルミーニングを含んでいるように感じられます。

 ひょっとしたら、月つながりで『美少女戦士セーラームーン』が元ネタなのかな。あれもアニメ版最終回については色々……っとネタバレなのでここでは言及を控えます。

 話を本編に戻しまして。メルは決意する。よし、だったら私も最終巻を作るまで……えっ新刊が並ぶ「ルナ22巻プリオンリー」の開催は4日後? 出来らあっ! と、作家魂を燃やす。存在しない最終巻を自ら生み出そうとする同人作家達の熱気に心を動かされた。同じ同人作家として、にわかオタクであることを自覚しながらも、『ルナ』を丁寧に分析し、徹夜で最終巻の執筆を進めるのであった。

「メル先輩が作品に対して真摯に向き合ってるのは、誰よりも私が知っているのに……。」

 そんなメルの情熱と誠実さに、モミジも心を動かされる。二人は仲直り。協力して最終巻の執筆にとりかかる。そう、真夜中の図書館で、夜が明けるまで激しい共同作業が行われる――

「エッチなのはダメ!禁止!!死刑!!」

 メルモミか、モミメルか。それが問題だ。うーん、悩ましいなあ……と、プロフィールによれば普段は生モノを取り扱っているというメル自身が、実は生モノカップリングになっているというメタ的構図は何だか面白い。本人からすれば「わ、私とモミジはそんなんじゃないからっ! 勘違いしないでよ先生っ!」って感じなんでしょうね。うんうん、わかってるよ、先生は全部わかってるからね。うふふ……😊

 二人はイベント当日の朝に脱稿。急いでイベント会場へ向かわなければ。しかしその道中、思わぬ刺客達が立ちはだかる。


知識を解放する闘争――改竄、マルクス主義批評、原作リスペクト

「チェリノ会長の可愛さと魅力を広めるために、ゲストキャラとしてチェリノ会長をその作品に登場させなければなりません!」

 レッドウィンター事務局、佐城さしろトモエと池倉いえくらマリナ。先生と知識解放戦線は苦難の末に同人誌を作り上げたので、その努力を称えて勲章を授与するのだという。しかし、授与の条件は、チェリノ会長を作中に登場させること。何なら主役にせよと提案するのであった。

 ふと思い出したのは聖書改竄の歴史。広く捉えれば、トモエたちの行為は、プロパガンダのために、テキストの改竄を目論んでいると言えます。これは初期キリスト教時代にも似たようなことが起きている。今でこそ、新約聖書は旧約聖書とセットで「正典」とされていますが、正典を最初に作り上げた人物とされるマルキオンは、実は旧約聖書のテキストを丸ごと省いている。一篇の福音書と、十篇のパウロ書簡だけ。その理由は解釈違いだったから。彼はユダヤの律法とキリストの福音はまったく別物であり、旧約の神とイエスの神は同じ神ではないと考えていたのだ。

 そして、マルキオンはテキストにも修正と削除を行った。これまで複製された十一篇は、パウロの信仰を知らない偽りの信者たちが、あちこちに少しずつ余計なことを書き加えてきたと考えた。『書き換えられた聖書』によれば、自分の教えに合うように聖書のテキストを改竄するという行為は、マルキオンの後にも先にも行われている。かの有名な「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という場面も、後世に付加されたものだという。今日我々が見ている聖書は、原初の姿ではなく、誰かが手を加えたもの。世界で一番で読まれているであろう書物がこうなのだから、歴史上、いくつものテキストが恣意的な改竄を加えられてきたことだろう。

「私たちなりの説得で、事務局の意志たろうとするを貫くしかありませんね。」

 メルとモミジは要求をつっぱねる。すると事務局は説得(武力行使)を試みる。これはまさに国家権力による検閲と思想弾圧。そして、『図書館の自由に関する宣言』(以下、『宣言』)の第4項は「図書館はすべての検閲に反対する」です。

 検閲は、権力が国民の思想・言論の自由を抑圧する手段として常用してきたものであって、国民の知る自由を基盤とする民主主義とは相容れない。
 検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らかである。
 したがって、図書館はすべての検閲に反対する。

『図書館の自由に関する宣言』日本図書館協会

 知識解放戦線は「知識そのもの」のために戦う――権力に歪められたものではなく、自由から生み出される真実の知識を手にするために。事務局の検閲に真っ向から立ち向かった二人は、まさにその名を冠するにふさわしい存在だと言えるでしょう。

「労働の歴史を振り返っていくほと、革命への闘志に溢れ、既得権益に対する闘争意欲は、より一層高められるものだからな。」

 続いて安守やすもりミノリ。『ルナ』の物語に階級闘争の歴史を見出しています。これはマルクス主義思想ですね。人類の歴史は階級闘争の歴史である。資本主義社会において、ブルジョワ階級(資本家)はプロレタリア階級(労働者)たる我々を不当に搾取し続けるが、彼らが打倒されるのは歴史的必然である。ゆえに同志諸君よ、今こそ革命のために立ち上がれ。人間は労働によって自分の本質を作り出すのだ。ミノリの行動原理はざっくり言えばそんな感じです。

 この立場から考えると、たとえば『天空の城ラピュタ』はこんな風に解釈できます――

 [……]このあと、シータが所有する飛行石の争奪戦が大々的に展開されるが、それは、没落した貴族階級の富と権力を誰が受け継ぐかをめぐる闘争を表している。飛行石を狙うライヴァルとして争うラピュタ王家の末裔ムスカ大佐と空賊団のボスのドーラは、国家権力による経済社会の支配を目指す国家資本主義と、国家からの干渉を嫌う自由主義型の資本主義をそれぞれ象徴していると解釈できるだろう。最終的にシータとパズーは、絶対君主制の復活を画策する復古主義者という正体を顕したムスカを、破壊兵器と化した空中要塞もろとも滅ぼすことに成功する。幸福な笑みを浮かべたドーラ一家と若いカップルが、同一の高さで空中を滑空するラストシーンは、封建制の消滅と資本主義・自由主義への全面的移行、それに階級格差の水平化を視覚化している。

『批評理論を学ぶ人のために(第10章:マルクス主義批評)』
竹峰義和著、小倉孝誠編

 ブルアカにも、搾取する側(大人)と搾取される側(子ども)という二項対立があります。ことカイザーコーポレーションの上層部は、利益のために弱者の犠牲を厭わない、まさに現代社会の悪代官。その対立の背景に、階級闘争の歴史を見出すことは決して不可能ではない。『ダークナイト ライジング』の脚本の構想元になったのは、フランス革命を題材にしたチャールズ・ディケンズの小説『二都物語』なのだそう。

 ひょっとしたらミノリの解釈も決して無理なものではなく、一考の価値があるかもしれません。なので静観していいでしょう。事務局みたいな無茶苦茶な要求をしてこない限りは――

「さらに、労働階級の啓蒙と解放のために、資本家に苦しむ労働者と彼女たちの闘争を主題として取り上げるよう申し入れる次第だ!」

 こんなんばっかや❗ レッドウィンターの生徒は❗ これも事務局と同じくプロパガンダではありますが、彼女の行動原理がマルクス主義思想と不可分なものであると考えると、この思想に接近した実存主義哲学者・サルトルのアンガージュマンを彷彿とさせます。これはブルアカ風に言えば「人は社会的な"責任を負う者"になり、"約束"を果たすことで、自分の本質を作り上げていく」ことの重要性を訴える概念。そして、サルトルはこの考え方を文学・哲学・批評などあらゆる分野で展開しました。

 「人類の歴史は階級闘争の歴史である」「人は社会運動に能動的に参加することで自分の本質を作り上げる」――こうした思想が隆盛した時代においては、文学と社会運動の結びつきが現代より遥かに密接であった。ミノリからすれば、「知識解放戦線」は、人々を階級闘争に参加させる知識を生み出すことで、その名を冠するにふさわしいと言えるのでしょう。

 もちろん、ミノリの要求を呑めば作品はまったく別物になってしまうわけで……ここで『宣言』を見てみますと、第1項は「図書館は資料収集の自由を有する」です。これには、特定の思想にとらわれず、フラットな視点で図書を収集することで「自由」を保障するという意味合いがあります。

 図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
(1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
(2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
(3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
(4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
(5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。
  図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。

『図書館の自由に関する宣言』日本図書館協会

 知識解放戦線はミノリの思想に染まらず、作品のあるべき姿を守り抜いた。それはやはり「自由」を守り抜いたと言えるでしょう。その名に恥じない活躍ぶりです。まったく素晴らしい生徒達だ――

かなりのオタクで、事務局に出す購入図書申請の大半は個人的な理由によるもの。そのため、ほとんどの申請は却下されているが、それでもモミジは諦めずに申請し続けている。

秋泉モミジ・プロフィール

……ってコラー❗❗
「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない」
ができとらんやないかーい❗❗👆💦

「同人誌の内容はよく分かりませんが、とにかくそれが貴重で価値のあるものだとお聞きしましたので!」

 まあモミジがかわいいからいっか! さて、最後の刺客は227号特別クラス、間宵まよいシグレと変態覗き魔……失礼、天見あまみノドカ。貴重な原稿をチェリノ会長との取引に利用することを目論む。これで思い出すのは、史実というより――

「たとえ誰の目に触れなかったとしても、大切な思い出を形として残したかった。」
「それをわざわざ掘り起こして、保管庫に収めたり、博物館に展示するのは……あの子を軽んじる行いです。」

 前回のイベントストーリー『隠されし遺産を求めて』ですね。ユスティナ生徒会が隠していた宝箱、もといタイムカプセル。歴史的に貴重な価値があることは間違いない。しかし、古関こせきウイはそれをシスターフッドに渡さず、その地に残した。形ある思い出を残し続けるという、"この子"の意志を尊重するために。

 少し話が逸れますが、過去や思い出といえば、『学漫同人物語』の終盤においてタカネがこんな発言をしています――

過去も同じ。現在は過去の集大成と申しますが、過去をありのままに記憶しようとする人は少ないです。忘却し、美化し、思い出の向こうに押し込めていくだけ……

そういう意味で私たちが大切にしているのは現在だけかもしれませんが、現在というものは存在しません。なぜならそれは、無限に訪れる「未来」と絶えず押し流されていく「過去」の狭間にだけ存在する一瞬の概念だからです。

だからこそ現在を取り扱う話は……過去について、そして未来について話さなければなりません。
それが時間という忘却に弱く、そこから抗えない「何か」に対する礼儀であり敬意です。

15話

 これはハイデガーの『存在と時間』における「到来」「既在」「現成化」「瞬視」でしょうか。……これまで通り噛み砕いて説明できればいいんですが、クッッッソ難解な思想書なので私は全っ然理解できていません。すみません。

 『カルバノグの兎編』2章後編の感想記事では、同シナリオと4.5thPVが過去・未来を色濃く描いていることから、今後は「時間論」や「繰り返される歴史」がテーマになるのではないかと予想しました。タカネの一連の発言もそのテーマを形作っているものなのかな?🤔 頭の片隅に入れておくか。予習範囲がまた増えたな……

 さておき。知識解放戦線もまた、"知識そのもの"を他人に歪めさせず、自分達もまた歪めない。二次創作はある意味では他人の作品に手を付ける行為ですが、タカネによればメルとモミジの『ルナ』は「真摯に向き合っていると感じられます」「近年では珍しい、真面目ながらもクラシックなお話であった」とのこと。つまり原作リスペクト。そこにはウイと同じく、誰かの意志を尊重する姿勢を垣間見ることができます。

 原作リスペクト、か……何だかメインシナリオと重なる気がしますね。原作ではAL-1Sで魔王だけど、ゲーム開発部の二次創作によってアリスで勇者になる。しかし、アリスは原作を否定することはせず、<Key>に向き合った。それから、「忘れられた神々」と語られる少女達は、先生により「生徒」として生きながら、逃れられない運命に立ち向かう。まるで原作と不可分な二次創作。そしてそれはタカネの言う、絶えず押し流されていく過去と、無限に訪れる未来との狭間において現在の自分を自覚する、という時間認識にも何となく重なる。

「事実は小説より奇なり」と昔の人が言ったとおり、
ドキュメント番組など観ているとだばだば泣いてしまって
「やっぱ作り話はかなわねぇなぁ」と思う。
そんな事を先輩の漫画家さんに話したら
「作り話だからこそ、本来なら救いの無い話にも
救いを作ってあげられるんだよ」
とおっしゃった。
なんだか、マンガ魂が引き締まる思いがした。

「鋼の錬金術師12巻(作者前書き)」荒川弘

 (二次)創作の秘めたる可能性。「Blue Archive(青春の物語)」というタイトルにはそんな意味も含まれているのだろうか……頭の片隅に入れておこう。


『学漫同人"物語"』

 以上、『宣言』や史実を元に読み解いてみました。何となく『白亜の予告状』のように受容美学を彷彿とさせる話であるように感じます。その辺を踏まえればもっと深いものが見えてきそうですが、なにぶん批評理論を勉強し始めたばかりなもので……今後も登場しそうなテーマだし、少しずつ学んでいきます。

 最後に、タイトルの意味について。ここまで見てきたように、メルとモミジは喧嘩して仲直りしました。雨降って地固まる。きっと今まで以上に絆が深まったことでしょう。そして、失われた物語の続きを紡ぐために、不断の努力によって奮闘し、完璧ではないけれど望みどおりの最終巻を生み出した――


そんな二人の努力の歩みそのものが、
まさに「物語」なのである


 そんなことに気づかせくれるのが、この『学漫同人"物語"』というタイトルと、

「……訪れたクライマックス、メルは自分のすべてを絞り出して作品を作り上げた……! まさに友情とバイオレンス、ハプニングとイベントてんこ盛りの……」
「素晴らしいエンターテインメント!そう思いませんか!?」

 終盤におけるヤクモの発言です。ここまで見てきた歴史が証明しているように、「物語」はかくも踏みにじられるもの。しかし「知識解放戦線」はその名の通り圧力に屈せず、図書館の自由を守り、この「物語」紡いでみせた。

 ヤクモは知識解放戦線の「物語」をエンターテインメントだと捉えて、実写映画化するのだという。原稿を没収するとのことなので、メルとモミジは抵抗。結果として「物語」があれやこれやとヤクモに濫用されることを拒んだ形になりますが、これはヒフミのブルアカ宣言――「私たちが描くお話は、私たちが決めるんです」に通ずるものがありますね。

 『ルナ』についてもう一歩踏み込んで考えてみますと、

「『ルナ』という名の2人が、偶然、同じような理由で同居することになり、そこから起こる様々な事件を扱った……」

 そもそも『ルナ』のあらすじは、何だかメルとモミジに重なります。メル(Mel)はラテン語で蜂蜜。モミジはそのままもみじで、似たような葉を持つ樹としてかえでがあります。蜂蜜とメープル(楓)シロップ。似たような名前を持つ二人が、同じ趣味を持つ者として図書館に入り浸っています。

 二人が作品を作り上げるその過程は、図らずも『ルナ』のあらすじとそっくりであり、やはり「友情」という名の物語を現実に生み出している。生モノを取り扱うメルが、図らずも自分自分自身が生モノカップリグンになっているように。Хорошоハラショー……モミメルてぇてぇなあ……

 そして、『学漫同人物語』(リアル)と『ルナ』(フィクション)が重なるという構造が、ある種のメタ演出であると捉えれば。これは『ブルーアーカイブ』という作品を楽しんでいる私達へのメッセージでもあるように感じられます。メルとモミジがそうであるように、私達も熱狂的なオタクカルチャーに生きている。私は自分の知識や人生観を刷り込んでクソ長えブルアカ感想文を書いていますが、それは誰かが生み出した二次創作や、何気ない感想のつぶやきだってそうだ。それぞれに異なる歴史があり、知らず知らずのうちに交差していく。そう――

 物語はいたるところにある。出来事の連鎖が流れをつくり出せば、物語は生まれる。というより、それ以前に、こうすればこうなるだろうと考えながら行動しているわたしたちはすでに何らかの物語を生きているのである。つまり、出来事のつながりに何らかの意味が見出されたとき、それが「物語」と呼ばれているのだ。

『批評理論を学ぶ人のために(第2章:物語論)』
赤羽研三著、小倉孝誠編

 この記事を書いている私、それに偶然辿り着いたあなた。ネット上はそんな偶然の出会いにあふれていて、その連鎖は「物語」と呼べるのかもしれません。

「どうか、私たちを忘れないでください……すべてが消えてなくなっても、ここに一冊の本と、それを読んで語った人たちが存在していたことだけは、どうか……。」

 『ブルーアーカイブ』のキャッチコピーは「何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語」――そう、きっと奇跡は転がっている。私達の何気ない日常に。そんなことを気づかせてくれた、この美しき「二人の物語」に祝福を。大丈夫。忘れないよ。それではまたどこかで。

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