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意識高い(笑)の(笑)が取れた日

どうもはじめまして渡邉です!NOTE初投稿です。記念すべき初投稿は渡邉の起業までの変遷をお伝えできればと思います。



学歴コンプレックスを感じていた高校時代

高校受験は頑張り、学区的(今はそういうのない?)には進学校に部類する高校へ進学はできたものの、テストでは下から数えたほうが早い”おバカ”の部類で3年間を過ごしていました。「なんで勉強するの?」と意味を感じないと勉強にエネルギーが入らない人間だったので、勉強しませんでした。今思えば、元から「意味・意義」を感じないとやる気が起きない人間だったんだなと思います。
周りは早慶国公立を行くような人たちが多かったので、現役受験で同じようなところを受験しましたがもちろん頭が追いついておらず浪人することに。浪人期間では結果的に立教大学に進学することになりました。当時は浪人仲間のほとんどは国公立早慶に進学をしており、偏差値でみると「自分は下」だと思いながら、立教大学の門をくぐることになりました。

意識高い系学生を目指した大学時代(1年生~2年生)

予備校(河合塾に通ってました)最終出席の時に英語の授業を担当していた里中先生に言われた言葉が今でも印象に残っています。

これからの人生は「偏差値より変化値」

「偏差値はあくまで予備校のテストで示した学力の相対的な値であり、ここからどんだけ成長するかが大事」この言葉には救われました。「よし!一杯変化、成長するぞ!」と思ったのは一瞬。蔦の生えてるおしゃれ大学に進学した私は最初はTHE大学生活を謳歌してました。サークルは広告研究会というミスコン運営をするところに所属をして、酒飲んで麻雀してパーティしてました。ここではお酒の飲み方、麻雀のやり方、イベント運営の仕方を学んだので、社会人には必要なスキルを少しは学んでいた気がします。笑
THE大学生活をしている中でNPO法人JUKEという日本にジョブシャドウイングを普及する団体と出会います。ここで出会ったとある先輩から言われた言葉で大学生活の動き方が変化します

就職活動は大学三年生の時に企業理解、面接対策すれば良いは大間違い。自分らしさや行動特性や好きなこと等を理解するための印象的な原体験をたくさん積み、自分にとって最適な職種を選ぶことが大事

こういわれて、今までのTHE大学生活に対して、当時違和感を感じました。稼げる会社、みんなからすげえって言われる会社に行くために(今思えば、承認欲求の塊のような人間で、少し恥ずかしい。。。)みんなと同じことをやっていてはダメだと思い、サークルをやめて、いろんなことを始めました。
・キャリア教育を推進するNPO法人
・夢や自分らしさを発見する学生団体
・立教大学で立教進学をする高校生へのキャリアイベント団体
自分自身が学歴にコンプレックスを感じていたので、同様のもやもや感を持った人に対して何か貢献できることはないかと思いがむしゃらに活動していました。いろんな経営者のビジネス書を読んだり、夢を持つことや志もって行動することの重要性を問うたりしてました。活動自体は楽しかったし、有意義と思っていましたが、一方で、自分自身がその言葉を熱を持って語れる原体験がないことに気持ち悪さを感じてきました。「私は何がしたいんだろう」と迷える子羊モードに突入。

意識高い系学生を目指した大学時代(3年生~5年生)

大学2年が終わろうとするころ、休学を決意し、3年生時期は1年間自分がやりたいことをやってみようと思い、世界一周とアメリカ留学(短期)をすることにしました。この二つの体験は今の自分にかなり影響を与えたと思っていますが、長くなるので別のNOTEで書こうと思います。
この二つの経験を経て思ったことは
・日本人なのに日本のことを語れない、誇れないことへの恥ずかしさ
・周りと比較していることの無意味さ。自分らしさを追求することの重要性
でした。
グローバルに活躍したいとか思った自分はなぜだか地方創生に目が向き
名だたる大物経営者がいる企業に勤めようと思っていた自分はなぜだか志高い組織や人に目が向くように
なりました。
ただ、ここで親との衝突が始まります。「子供の人生の安定」を求める両親(つまりは大企業志向)と「自分らしい道を歩みたい」自分でかなり口論になったことを覚えています。結果的に、起業に自信もない自分は起業もせず、ベンチャー内定も辞退して、就職活動は総合商社や大手コンサルティングファーム等を内定頂きましたが、結果として人材サービス業業界2位のインテリジェンス(現:パーソルキャリア)に入社をしました。親からはとりあえず上場企業にいけて安心、とは言え理想の会社ではなかったので喜ばれなかった感覚を覚えてます。

意識高い(笑)が全く取れない社会人1年目

新卒一年目は端的に表せば、

言うこと聞かない、成果も出ない、怒られる

まともな社会人ではなく、子供でしたね。先輩からは、コントロールできない困る人材とずっと思われてました。
一年目に心が折れてしまう時もあり、数日会社を休んだ時がありました。転職サイトをチラチラ見て、「このまま辞めたら楽だろうな、、、」とだいぶメンタルやられてましたが、「ここで辞めたらずっと逃げがちな人生になる。自分で成し遂げたい目標設定をして目標達成してから考えよう」と再起して、2年目がスタート。2年目は自分の成長に重きを置いて、採用コンサルタントとして質と量が高い状態を表すために自分の担当注力10社顧客に1番評価される(NO1エージェントとして君臨して、NPSが9以上)と言う目標を設定して業務に従事。毎月の売り上げ貢献よりは転職支援人数や顧客へのインパクトばかりを考えていたので、上司的には歯がゆい部下だったと思いますが、今まで業界一位に負けていた顧客を何個もナンバーワンエージェントを剥がしたりして、個人的な成長目標を達成することができました。

転職を考え始めた社会人4年目

採用コンサルティング業の中で、私はファンドや銀行を担当しており、その顧客の支援先の支援をすることも多くありました。その中で地方の企業の状況を目の当たりにします。
人がいない
お金もない
時間もない
等々、当時、我々が普段相手にしているお客様はどちらかといえば数十億を稼いでいる一定大きくなっている企業が多く、採用にかける予算も数百万~数億円持っているところであったため、「自分は果たして採用の支援だけをすれば良いのだろうか?」という問いが生まれました。仕事も慣れ始めたタイミングでもあり、最初はグループ内人事異動で公共部門や地方企業支援を行うプロジェクトで異動を試みましたが、もろもろタイミングが合わず、グループの中では生まれた問いの答えを見出すことができませんでした。
転職のきっかけは知人からの誘いです。DMOや地域商社等ローカルにある企業の支援を行うニッチな業態に興味を持っていることをいろんな人に話していたところ、たまたまその界隈の人と知り合うことができ、人も必要だったタイミングらしく、採用コンサルタントが初めて自分の転職をしました。転職って緊張しますよねw

自分のやりたい方向に動き始めた2017年

縁もゆかりもありませんでしたが宮城県で活動するVISIT東北株式会社(現:株式会社WasshoiLab)に入社をしました。
これも激動の数年間だったのでw別途書こうかなと思いますが端的に起業手前までの学びを要約すると

~個人のスキル、マインド面~
・断片的な視野(営業だけやってればよいではすまない)だけではなく全方位的な視野(会社の喫緊の経営、未来を予測する等)がなかった
・嫌われる勇気(短期的にみて嫌われたとしても長期的に見てその人のためになる言動ができること)がなかった
~地方に来てみての実態理解~
・地方企業に足りないのは人手(数)ではなく特定の役割を担える人財
・地方自治体も住民・企業に向けて”何をすれば良いか”悩んでいる
・官民問わず、「どう実現させるか?」を考えるPMOやファシリテーターの存在が欠如している

4年間地方ビジネスと公共事業の前線に立たせていただき、公共事業づくり(民間でいう事業企画ポジション)とソーシャルビジネス経営(地域商社、インバウンド観光、飲食、移住定住)を経験することができました。業績の良し悪しはありますが、地方でのやりがいをとても感じました。(今まで関わったお客様やビジネスパートナーの方々にはとても感謝しております)

自分の存在価値があるかもしれないと思い始めたコロナ禍

ようやくタイトルの伏線回収です。笑 私が意識高い(笑)の(笑)が取れたのはコロナ禍に入り、飲食や観光に事業ドメインを置いていた前職での大打撃を受けていた頃です。それまでは売り上げも仲間も少しずつ増えてきており、ここから軌道に乗せていこうと思っていた最中、外部環境の強烈な変化に会社がすぐに吹っ飛びそうな経営状況に陥りました。「どうにかしなきゃいけない」という気持ちが過去最高クラスになり「絶対に結果を出す(ださなければならない)。そのためにも顧客に求められる価値を提供しなければならない。やらない理由を並べてる暇があるなら、やる理由一つでも見つけて動く」みたいな意識が一気に刻まれるようになった気がします。コロナ初期2020年は4月から5か月休まず仕事したのを今でも覚えています。。。(一緒に活動してくれたGM7飲食メンバーにはほんと感謝です。あと自分も体調壊さずやれて奇跡w)
常に現場で動いていた自分でしたが、いくつかの顧客から”会社”ではなく”個人”で評価をいただくケースが増えてきて、そこから個人の価値について気付き始めます。そしてその心境の変化に拍車をかけるように、とある人物との出会いで人生が激変します。某氏と一緒に福島の仕事をするようになり、その中で原発地域に入りました。そう、今住んでいる浜通りという地区です。原発事故が2011年に起きて、たくさんの人が避難してしまったエリアです。2020年までは帰還促進がテーマでありましたが、”新しい人と一緒に新たな価値を作る”ために移住促進や新産業創造をしていくことがテーマになっており、私としては当時関心が強い分野でした。浜通りの事業活動をしているときに某氏から「なべ(私のニックネーム)、起業しちゃえばいいじゃん」という軽めな提案を頂き、家に帰って真剣に悩みました。
「俺なんかが起業してやれんのか?」
「家族に迷惑かかるんじゃないか?」
「貢献できることなんて少ないし・・・」
やらない理由並べ始めた自分に気づき、ふとコロナ禍の強烈に意識づけされたことを思い出します。
「やらない理由を並べてる暇があるなら、やる理由一つでも見つけて動く」
多少の不安はありましたが、起業することを決意して「どうにかなるだろう」精神で2021年8月12日に株式会社サイドストーリーを創業しました。

今日はここまでにしようと思います。
これからは週1~2個でコラムを書いていこうと思います。
皆さま株式会社サイドストーリーの渡邉をどうぞよろしくお願い致します。