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2月12日 夢見る頃を過ぎても

既知の中にも未知

リビングのテーブルに積読本が10冊近くあるのに、本屋さんへ。最近読みたい本が変わって来ている。何も考えずに辿り着くいつもの売り場に行っても、心躍らない。小難しい本は今いらない。
欲しい本を探して、新書・文庫本売り場に行く。
新書・文庫本売り場は、同じ装丁の本でタイトルがあまり頭に入ってこないこともあって、あまり好きではなかったんだけど、買いたい本と同じシリーズには読みたくなる本がたくさんあった。

ポッドキャストを聴いて、気になった漫画を探しに、漫画売り場へ。

普段漫画を全然読まないので、どこら辺に行けばあるのかという土地勘が全く働かない。出版社の名前、その出版社がどういうジャンルの本を出しているのかも分からない。タイトル、著者名、出版社名を駆使して見つけられた。

本から離れている最近だけど、ジャンルは無限にあって、「今読みたい本ないな」と思う時にも、どこかには今の自分にぴったりの本があるんだろうなと思うと、心の支えが増えた気がする。

魔法が使えなくても

20代後半の人生の悩みをクォーターライフクライシスというらしい。なんでも新しい言葉作ればいいんじゃねえんだぞと思うこともあるけど、このクォーターライフクライシスという言葉は、転職が当たり前になり、結婚や子供を持つことが必ずしもするものでもなくなり、(表面上は)多様な生き方が認められるようになった今だから生まれたんだと思う(調べてないから、昔からあったかもしれないけど、けど今の方が言葉にリアルさがあると思う)。

最近、年齢はどうでもよくなってきていると言いつつ、ふとした時に自分の年齢を思い出してゾッとするし、間近に迫った30歳というのはやはり重みがある。若さって何だろう。主観的なモノか、周りの認識によるものか、年齢によって絶対的に決められるものか。

夢を持ったことがなくて、今に流れ着いた感じがある。今やっている仕事は、比較的自分にしかできないことで、続けることで成し遂げられることもある。だけど、内的にはなんだか満足しない。

好きなこと、向いていること、苦じゃないこと、意義があること、任されること。何かを選ぶときの評価軸も無数にある。好き・やりがい・夢至上主義的なものは絶対的なモノではなく、幻想であることも気づきつつある。

何を成すかという意味での夢が幻想かもしれないとしても、それとは別で、思いもかけずに輝く夢のような瞬間はこれまでもあったし、これからもあると思う。夢は叶えるものではなくて、気づいたら見ているものなのかもしれない。そう思いたいな。

魔法が使えなくてもを読んで、ドキッとするほど眩しい絵に、そんなことを考えた。

大好きなこの曲も思い出した。

足腰痛めるのは60代からだと思っていた

昨日、22000歩歩いて、今日は18000歩歩いた。ちなみに、一昨日は300歩。アップダウンがすごい。最近長距離歩くと、股関節とか親指の付け根が痛む。想定してなかったな、20代から節々が痛むようになる生活。60代くらいからなると思っていた。


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