毎日人間のふりをする。モボモボは、人間に人間を教えてもらう。

まわりの人がみんな人間してるんだなと改めて気づいた、というかみんな根っからの人間だ、ということに最近気づいてすごく違和感を感じている。
だからといって自分が人間じゃない。私だけは違う。かと言ったら全然そんなことはないんだけれど、今私は全く客観的でない。まわりのみんなと私の人間具合に実際すごい差はないんだろうけど、私が個人的に強く感じていることだ。きっと今私は思想が歪んでいて頭がおかしい。歪んだ思想にどっぷり浸かってる状態で私が感じたことを残したくて文章を書く。



友達と行動してる時とかバイトの時とか人と関わる時、わたしはいつも人間ごっこをしている。普段の自分を体内に隠して、人間のふりをする。


昨日はカフェ巡りをした。江別まちなかアートっていう、お店×アーティストで展示するっていうイベントをやっていて、学校の友達も何人かカフェで展示をするので友達と3人で見に行った。
友達に誘われてカフェに行くことは今まであったけれど、カフェ巡りをするの初めてで、ノリノリで5軒も回った!おいしいものをゆっくり食べて、話をするのも楽しくて盛り上がって、普段カフェって行かないけれどすごくいいものだなって思った。

でもそれは人間に擬態した私が思ったことだ、と思う。人間たちはカフェを過大評価してる。私の友達たちがみんななぜそんなに喜んでカフェなどに身を投じるのか、分かる気もするしよく分からない。いやすごく素敵なのわかる!!コーヒーもいいものはすごくおいしいってことがわかったし、店内の雰囲気素敵だし家で作れないようなおしゃれで見栄えのするおいしいご飯大好きだし、ゆっくりチルれるし!でもなんとなく変だと思う。
ものすごく偏った考えかもしれないけれど学校にいるとなんとなく、おしゃれなカフェで過ごす時間が最高の喜び…という考えが場を支配してると感じることがある。

私は自分が本当に大事だと思うもの、物事の本質・内側に興味がある。エレメントとか、3大欲求とか、世界の真理に近づくものでないと描いている意味がないとすら感じることが多い。あと自分しか持ってないものしかめいいっぱい愛せない(だから現実の地域を描くとか、二次創作とかがあまりできない…)。他人を一切寄せ付けない、自分の世界を一人で大事に囲っている。

でも気づいたけれど、みんなそうではないのだ。もしかしたらほとんどの人がちがうかも。絵も行動も、私みたいなほかの事をぶっ壊してでも自分のいま一番大事だとおもうものだけしか考えられない人間と、生活も自分の内側や絵のこともうまくバランスをとりながらそのバランスゲームの中を楽しみながら制作している人間がいる、と思った。違うかもだけど。

バランスゲームの人間は、絵を描くことが日常を素敵にする、とても上質なたしなみのようなものなのではないか、と私は予測する。全然違うかもしれないけど。エミール・ベルナールが絵画技法のクロワゾニズム(輪郭線をくっきり描いて、平坦な色面で塗る)を西洋の教養のある人間の嗜みとして扱ったのに対し、ゴーギャンがそれを自らの内面の本質を表現するのに使った、ということを思い出した。

人々が生活の中でときどきカフェに行ったりすることに違和感を感じるのは、そこに私が求める本質がないからなんじゃないかと思う。
個人的で、自分勝手な考えだ。

日常にはカフェの他にもなんとなく気持ち悪いと感じるものであふれている。札幌へ行くバスの中でのカップルのどこで外食しようかお寿司食べようかっていう会話、親が私の就職を喜ぶ様子。いろんなおばちゃんたちは世間のあらゆる会社の内情やどこそこに何が新しく建つとか事件のニュースのこととかテレビに出ているようなことの噂か人の悪口を言い、みんな世界のための都合のいい機械のように見える。
というか今の私には世界のすべてが気持ち悪い。みんな私も含めて、みんながお金もうけしたり世界を続けるために用意した機構の中に吸い込まれていく。


この違和感を頭の中でぐるぐるするきっかけになったのは明らかに、最近読んだ地球星人という小説だ。この話のせいで世界が今までの500倍くらい気持ち悪く見えている。

主人公は生まれ育った千葉のニュータウンを「人間工場」として見ている。たくさんの小部屋に詰められて巣穴みたいな部屋で過ごして、子供が大きくなったら巣立って新しい小部屋に行き、相手を見つけ新しく子供を作り…を繰り返す工場。
「工場」に洗脳され世間の標準として生きこの世界を埋め尽くす「地球星人」である主人公の家族と、それに違和感を持つ「ポハピピンポボピア星人」として「工場」「地球星人」にものすごく抗う主人公と協力者。

⚠️ネタバレ注意
最後の方のシーンの、「地球星人」が今まで惰性でやってきた、例えばスーパーに行くとか家の中で服を着るとかお金をかせぐとかをやめて自分たちが生き抜くための合理性を第一に行動する「ポハピピンポボピア星人」となり完全に人間をやめた3人が興味深い。地球星人だったときに何も疑わずにやってきたあらゆることを疑うことで真のヒトの姿みたいになっていっていた。
⚠️ネタバレここまで

確かに私たちの行動って大体決まってる。私や世界中の人々が日常の中でするあらゆる行動もすべて、社会に予測されていると感じる。
昨日友達に「私はスーパーすごく好きだけど最近スーパー行くと、私たちの生活ってすべて家畜みたいに管理されてるっていうのを感じて気持ち悪くなる」って内容を話したら、「私は全然管理されとくわー!」って感じのことを言ってた。
「そっか、みんな受け入れてるしこの生活に違和感感じないんかー!」ってなんか拍子抜けした。人間としての生活を楽しんでいて、それでいながら自分なりに色々感じながら生きてる友達をうれしく思った。

私も最近はすごく違和感を感じているけれど、そうでありながらも全然管理されてる側の人間だ。それに私だってこの考えにズプズプ嵌る前はこの世界ちょっと変な気もするけどまあ楽しければいいかーってかんじだったし。

みんなも違和感を感じることがあったりしながらもこの生活を楽しんでいるんじゃないかな?とおもう。どれくらいの人が全く疑わずに過ごしていて、どれくらいの人が私みたいにちょっと違和感を持っているんだろうか。



この世界は気持ち悪くて仕方ない。私にとっての楽園は、現実世界にはもう存在しない。
現実の絶望に抗う術は、もはや自分の世界に閉じこもることしかない。絵の世界は私の体液でできた海みたいに私の形質しか持っていなくて、それがすごくありがたい。現実世界に真の理想はないから自分の中身を楽園にする。

色々考えたけど、結局この結論か~~~~~~!私にとって大切なことって自分の内側にあるみたいです。もう知ってる!
けどまた改めて大事だなーっておもった。

私はほぼ毎日人間のふりをして生きて、みんなと同じような巣穴みたいな家に住んで、スーパーで買った食材でできたご飯を食べて、予測可能な範囲内の行動をして、みんながやってるSNSをいじって、大量生産されたベッドで眠る。でも本当に大切なものは私の内側にある。奇跡や予想外は私の内側の世界の中でしか生じない。

自分が人間であることを飲み込むのは大変で、薬みたいに苦い。でも、カフェに行ったりバーに行ったり人と付き合ってみたり、人間になることに憧れを持ってる。人間のみんなは私が知らない人間の喜びを教えてくれる。

自分の中で人間とバケモンが永遠に戦うだろう。人間の私はコミュニケーションの道具を使って本質的でないものもたくさんまざった外界のものをインプットし、バケモンはそれを踏まえながら内側で暴れる。人間とバケモンの戦いが一生体内で巻き起こるのを見届けながら生きる…(おわり)

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