noblesse oblige
日英の社会で最も異なるのはこのノブレスオブリージュだろう。
公共の場で声をかけたり、支援を申し出たりするのが日常であるなど、現代においても英国の伝統は根付いている。
古い時代の階級に関係した制度ではない共同体があり、ソーシャルポートネットワークの一端を形成している。
最近、二人のロンドン在住歴のある友人にお話を伺う機会を得た。お二人とも、日英の違いを顕著に感じていた。
さらに英国は世界標準とは異なる控えめな社会的投資戦略により、豊かな中間層を育もうとしている。効果が出るのはずっと先だが、
少なくとも、疲弊して縮小を続ける社会はなく、世間しかない日本において、同じことをしたらどうなるか?
必要なのは消費ではなく、社会への支援と投資だろう。
そういった意味で、社会的処方という枠組みは合理性に乏しい。
あるとするならば、医者を「巻き込む」ために使うくらいしか用途は思い浮かばない。
しかし、良識ある医師らはその違和感に気づいている。
本当は社会的処方という枠組みではないということ。単純に医師らを巻き込んでも、うまくいくかはわからないし、そもそも、市民がそれを望んでいるかもわからない。
だから、ソーシャルワーク領域まで手を伸ばし、住民主体の活動を支援する取り組みが増えてきているのだろう。
その差異のポイントは、「陰ながら」という点である。
間違っても、自分がやった!とかお山の大将になったり、活動に自分がかってに名前をつけてはいけない。そんな野暮なことをしたらプロ意識が欠如しているとしか言いようがない。
望まれていない問題解決もむしろ邪魔だ。
地域の人たちが話し合い、時にぶつかり合いながら、地域コミュニティというものは構築されていくものだ。
我々の仕事は、そこから排除されたり、コンフリクトで潰されそうになっている人たちがいないかをエコシステムの一つとして見守り、支え続けることだ。
信頼できる人と安心できる場所を手に入れられるまで、その社会関係の調整は続いていく。それが伴走型支援そのものだろう。