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個人的なエピソードしか頭に入ってこない

土日は久々に何もしなかった。本屋と喫茶店と銭湯とバッティングセンター、川や道路、無料で入れる謎の博物館などをひたすら練り歩くことだけ。

久々に本を買った。『怠惰の美学』(美徳ではない)『路上の抵抗誌』『時間旅行者の日記』『秘密と友情』『純粋力』『本をつくる 赤々舎の12年』。

頭空っぽででかけたので割と読めた。買った本にもあるように、最近は主観的なもの、個人的な文章、ノンフィクションしか摂取したくないという状態だ。ビジネスはもちろんだが、人文的なものですら、思索的なものはともかく、こういう考えもできるとか、こういう概念だ、とか、そんなものですら頭が受け付けなくなっている。はいはい、どうでもいい、と心底思う。

ビジネスは明らかな競争や自分の内面とは関係のないものだから言わずもがな、そこから脱する手がかりとなりそうな人文的なものにも嫌悪しているとはけっこうなことだ。

たとえば、中動態という概念はおもしろいが、自分の感情や悩みに向き合ってる時にはどうでもいい。それどころかなんか知ったような感じで、そういった概念を使って自分の感情を説明しようとされるとムカつくし、一方で矛盾するようだが、悩みや苦しみを概念で捉え直すことで落ち着きを取り戻そうしとしてきた自分もいる。なんでそうやって捉え直さないと生きていけないんだと本を投げたくなる。たとえば、脱構築という概念はおもしろいが、それをやった上で困ってるんだよとなる。

末井昭の『純粋力』には、ギャンブルに入り浸った経験や、不倫をしまくり、元妻をひどい振り方をし、今の妻との現状などが書かれている。48歳で付き合い始めた現妻は、末井を「はぐれ犬」だと思い「家族を教えてあげる」と言ってくれたなどという。そこから元妻には嘘をつきながら不倫を繰り返したこと、現妻はズバズバと自分の痛いところを突いてくるため、嘘をつくことができず心と心が重なった状態で生きられている、といったことが書かれている(思い出しながらなので適当だが)。自分はこの不器用な経験、それでも愛してくれる存在がいることに、希望を持てる。

こういう個人的で、何でもないエピソードでいい。今は心を落ち着かせる方法論や人文知よりも、よっぽど薬になっている。というか、自分が感じているこの悩みも味だなと、自分の生を捉え直すことができる。

読書の傾向なんて移ろうものだろうが、自分の今を映すものとして書いてみるとおもしろいなと思う。

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