見出し画像

自分中心で問いを立てるという当たり前のことが難しい

自分の問いを立てるというが、自分の内側から問いを立てるのはなかなか難しい。たとえば、仕事をしているとその意義を説かれ、そのビジョン的なのを実現したいと思う。あるいは思わされるともいえる。また、属しているコミュニティで、たとえばデザインのビジネスにおける意義などが問われたとして、まあなんとなく大事な気がしてそれに乗っかる。いつのまにか、それが自分の問いだと勘違いして、饒舌に語るようになる、とか。(例は適当)

たいしておもしろいと思わないものならまだしも、それなりにどれも考えるとおもしろくはあるので、まあいいかとなる。でも本質的には自分が考えたものじゃないので、その会社の一員である自分や、そのコミュニティで言説に乗っかる自分を演じるようになる。

怖いのがそれが自分の問いや軸だと思っていることで、アイデンティティにもつながってきてしまうところ。今は特に、「何を目指しているのか」「自分の問いは」みたいな風潮があるゆえに、それを持っていることが安心材料になる。私はこのビジョンを目指している、ここが関心領域です。

自分の場合そうやって話しているものは、それなりの関心はあるので嘘ではないが、衝動に突き動かされるまではいっていないことに気づく。

そもそもの問いの立て方が間違っていた。まず向き合うのは自分だけにして、必要であればそこと会社やコミュニティで行うことをつなげればいい。

・・・

そういったところもあり、たとえば、自分と社会の間の引き裂かれている感覚や、それをどう跳ね返すかとかについて考えていた。これは間違った問いを立てていたもやもや自体から問いにもつながっているような気もしていて、わりと今だからこそ感がある。それでも自分の会社とかにはつながってくるし、ピュア度が100%というわけではないのだが。

自分中心の問いを立ててそれを軸に仕事や活動を紐づけていきたい。しかし、これは普通に考えて、週5日8時間以上働く中では、だいぶ無理がある話だと思う。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』でも社会人になって本が読めなくなった筆者の話が書かれていたが、ほんとにそうだ。自分もだし、誰もが自分なりに工夫していると思っていると思うが、数年経つと純度がいつの間に下がっていて、自分が作った問いや関心をアップデートできずに、打ち立てた過去の自分のビジョンに従って自己奴隷化していることもざらではないか。

かといって、自分の場合は、一人会社で衝動に突き動かされて?やっていた、20代半ばのように自分の問い(というか謎の概念や、妄信した信念)で自由度が高い状態ではできないことも多いし、今戻っても一人や自分のキャパの限界を感じて、似たような選択をすると思う。また社会的に組織やコミュニティの存在は不可欠なので、単純に自由になるのではなく、今の状況に紐付けてこの引き裂かれの状況と付き合っていきたい。

・・・

自分中心の問いを立てる上で、『リサーチのはじめかた』が先生代わりになっている。こういう学術的なプロセスをわかりやすくhow toにしてくれるのは怠惰な自分にとって、正直いってありがたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?