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悲観についての垂れ流し

ペシミスト思想家のシオランの入門書『生まれてきたことが苦しいあなたに』を読んだ。怠惰や悲観といった言葉には惹かれてしまうものがあり、梅崎春生やラッセルなどのエッセイも読んだことがあったが、専門家による解説というところもありシオラン本がわりと頭には入りやすかった。

ペシミズムとは
厭世(えんせい)観、または厭世主義、悲観主義と訳される。「最悪」を意味するラテン語pessimumに由来することば。オプティミズム(最良観、楽天主義)の反対。この地上は悪が支配していて、生きる限り人はこれを根絶できないという考えで、しばしば人生は生きるに値しないという思想に発展していく

コトバンク

こんな本を読んでいたり惹かれたりする自分は怠惰だったり悲観的だったりしそうだなと思うが、状況や場面によるといえばよる。変わるものなので楽観的な時も悲観的な時もある。

ただ楽観的な時にはわざわざ本を読んだり文章を書いたりなどとしない傾向にはあるように思う。自分でいう楽観的な時はアドレナリンが出ていてやるべきことがはっきりしていてそこに向かって行動が多い時だったりする。そういう時にシオランのような怠惰や悲観のもたらす効用などを取り入れて考えようと思わない。

そう考えると楽観的な時の方が生産的でよい状態のように思える。視点によっては当然そうだが、この本では悲観的な生き方の効用を説いている。たとえば、以下のような側面。(いずれの側面も読んだ上での、自分のざっくり解釈)

  • 悲観的な人間は何もしようと思わないので、悪事も働こうと思わない。昨今のアテンションエコノミーのようなものにも反応しない。ただ何もしない、といったときに行動を起こすよりも優れた面がある。

  • 常に死を選択肢として持っていることで、自由を手に入れられる。

  • ポジティブで、行動や自己研磨を行える人ばかりだと、能力主義を加速させてしまい生きづらい社会になる。

悲観的になっているときは仕事など生産的なことをしようと思っても動けないときがある。そういう時は運動したり、メンタルクリニックにいくなども対処法だが、こういった時期もあると考えてみる。自然な状態だと捉えてみることが大事なのかもしれない。そもそも生産的だったり、ポジティブである必要などないのだから。

とはいえ率直にいって、自分は特に暗い気持ちで過ごしたいわけではない。楽しく生きたい。でも辛かったり、暗い気持ちはやってくる。そう考えるといかにそれを味わうことができるのかというところが大事だなと感じる。

最近東京にいく機会が多く、たまには人と会ってみるかと気分で高校の友人を誘って飲みに行った。昔一緒にいた高校の時の3-5人くらいのグループの話になり、そのうちの一人のブログみたいなものを見せてもらった。それはぱっと見、悲観や諦念が多めに見えるものだったが、内容がかなりおもしろかった。

また自分は昔から、商業的な文章よりも、誰も特にみていないだろうという場所で自閉的につぶやかれた文章が好きである。そういった文章で共通するのは、生産性や人を喜ばせようというスタンスではなく、自分のために書いているノリや自分の思考過程を垂れ流すようにあらわにしているところである。誰もみていないようなブログやTumblrで垂れ流した文章。あるいは文フリなどでもよいと思うのは、自分のためにぐるぐると書いていたものを外に出したような作品である。

わりと商業的に流通している文章でもそういったものが好きな傾向がある。自分のために書いていたらそれを誰かがおもしろがったような文章。中島義道さんとかは自分が読んだ本はそういう印象である。澁澤龍彦や三島由紀夫とかのエッセイも好きでたまに読むが、そういうノリが多い気がする。生産的な感じがあまりしない。研究者でも立岩真也さんとかは結果社会的に意義が大きい仕事をされているが、思考過程を垂れ流したものをベースに展開されている。

こういったものは基本的に日々の葛藤や何気なく人に言われたことば、もやもやから考えた論理展開をベースにしている。これらは生産的な日々をすごそうと思っても出てこない。こういったところにゆっくり怠惰に生きることの尊さがあると思う。

しかし、自分は目の前はあまり怠惰にもなれない状況である。加速主義的な流れのなかにいるといえばいるので。その結果、疲れているといった状況であったりする。だから怠惰論を見て、そうなろうとも言えない状況をどう捉えるのかというところを考える。

今の所の悲観に対して自分はこうあるといいかなというところを書いておくと、日々の何気ない出来事や疲労みたいなものを書き留めて味わうということである。自分でいうと多いのは、自分できないな、という感情が一番身近な悲観としてよく出てきやすい。これをKPT的なフレームワークで解決していくのは大事だと思う。自分自身に原因を起因しすぎずに外在化して捉えるのも必要だと思う。一方でそれでも意味付けられない自分のできなさというのは存在する。それをただ書き留めて、浸ってみるというのが大事だし、意識をしなくてもそれしかできないように感じる。

この目的を書くと生産性が生まれるというループに陥りそうなので書いてしまうと微妙な感じになりそうなので、これで終わる。

プラットフォームの持っている雰囲気なのか、noteに垂れ流す文章を投稿するのは気が引ける面がある。わかりやすく伝えないといけないのではないかといったプレッシャーを感じる。だから、こういったものは普段特に誰もみていないnotionに書いている気がする。でもシオランのことや好きな文章について書く際に、まあそういう必要もないなと思って投稿した。

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