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兵庫県知事選挙をメディアの視点で振り返る~立花孝志とSNSvsオールドメディア~

結論から言えば、立花孝志氏を評価する。一方で、オールドメディアvsSNSの構図には賛成しない。前者は言葉そのままなので一旦、後者について説明する。また、先に斎藤元彦氏の再当選は祝福したい。

これも結論から言えば、SNS上は誹謗中傷の問題を抱えており、それは解決される必要がある。一方で、兵庫県知事選挙においてSNSは活用されたが、それは濫用されたわけではない。

オールドメディアvsSNSの構図は、どちらからも提唱される。オールドメディア側は、SNSに対して、公職選挙法などのルールが整備されていない、誹謗中傷が許容されるニューメディアと罵る。

一方で、SNS側をみれば、オールドメディアを「オールドメディア」として既得権益の巣窟と定義する。また、こういった既存メディアは「真実」に対して、「偏向報道」を行い、事実を歪めるという。

こういった両者の対立は、兵庫県知事選挙の本質ではない。本質は、ジャーナリズムの質にある。オールドメディアと揶揄される既存メディア側も、誹謗中傷が飛び交うSNS側も、ジャーナリズムの質で評価されるべきである。その点、今回兵庫県知事再選を後押ししたSNSに分があった。

今日はそれを解説していく。よろしければ、noteのフォローとスキ、お願いいたします。

兵庫県知事選挙の総括

まずは、今回の兵庫県知事選挙の報道について振り返っていく。

既存メディア側は、選挙に入ると公職選挙法の規定にのっとり、ある程度「公平」な報道に終始してきた。この点はよくも悪くもであり、後で言及していきたい。一方で、公平でない点を上げれば、立花孝志氏はできるだけ取り上げない方向であった。

それも公職選挙法の解釈の範囲内で、つまり既存メディア側が「公平」と思うように報じている。その点、結論から言えば特に問題はない。

一方で、SNS側は個人発信の情報であるため、選挙における位置付けとしてボランティアであり、公職選挙法の制限を受けない。この点、SNSが公職選挙法の制限を受けよというメディアの指摘は妥当ではない。

ボランティアである個人発信は、自分が発信したい情報を発信し、自分が取得したい情報を取得する。今回、兵庫県知事選挙に機能したのはこの点である。

立花孝志をキーとして、斎藤知事の既存メディア側の報道に対して、疑問を感じた義憤により、既存メディア側とSNS側で「ジャーナリズムの質」に差が生まれ、SNS側の方がうまく機能したと言える。その点、立花孝志は今回の台風の目であり、大変評価できる。

問われる「ジャーナリズムの質」

よく政治と金の問題に起因する政党に対するジャーナリズムは既存メディア側から上手く機能している。では今回なぜ、ジャーナリズムの質が既存メディア側で低下したのか?

それは、ジャーナリズムでは自分自身を反省する機能は求められないからである。組織であれ、個人であれ、批判をして追求するジャーナリズムの本質は、自分あるいは、自分が所属する組織に対しては働かない。

なぜなら、自己内部における意思決定はその人や組織が経験した物事から合理的だと考えられるようにされ、そこに対する批判の余地は生まれないから。ここに対する批判の余地が自己内部から生まれれば、その主体は行動することが出来なくなってしまう。

この既存メディア側のジャーナリズムの質の低下に対して、SNS側はうまく機能したと言える。

大切なことは「正義」に訴えかけること

既存メディア側が自己批判をできないジャーナリズムの罠から抜け出すには、百条委員会に目を向けることである。吉村知事をはじめとして、兵庫県民の民意を尊重する人々は、今回の結果で議会に対して疑問を抱く。その視点で報道してみることである。そこに今回SNSが訴えた正義があるのではなかろうか?

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