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霜花——漂泊と残紅 4

 僕ひとりのための暖房を消して教室を出ると、廊下は紫と黝の陰に呑まれていた。学校の蛍光灯の殆どは十七時に自動で消されるから、僕が歩いても蛍光灯は黙っていた。窓辺は、外のほうが明るいというだけで内に光が侵入するのを許した。
 暖かさのために重くなった目許を冷えた空気が一瞬、擦過した。
 「……惨めだ」
 内臓から発する悪寒に身顫いした躰の、その肉躰のほうは精神に引き摺られているように観じた。そして、それを誰れかに見られて「大丈夫?大変だね」と言ってほしかった。
 エレベーターホールの前に展示されている絵は薄灯の中で観ると、ディテールを見とめることができずに、ただ一層、皙さだけが周囲の黝に漂っていた。
 「乳首……」僕は、撓った*躰の、その色の異なるところをよく見た——佐伯さんは、僕とは恰で*違うところに生きる。学校にメイクをしてきて注意されても已めない*とか、忘れ物をしても悪怯れず*に笑っているとか、その心の在るところが僕とは違う。その性格から佐伯さんを讒く*言う人はきっと少なくないし、本当のところ、快くない噂はたくさん、彼女が歩くたびに溢れてくる。しかし彼女は、必ず自分の陰口をした人でさえ顔色の濁ることなく話している。
 それに、彼女と話してみて、僕は橋田を笑わせたようなことは言えない。姣しいけれども、最も幸せなのは、僕が意識せずに過ごすこと。十年後にアルバムを覧て、ため息をつくこと。

 エレベータホールの灯りのために階段は影ができて能と暗い。一段、一段、落ちるように降っていた。十七段の中頃を過ぎたとき、踊場の翳の黒から、ぬっと皙い顔が覗いた。どこから光を蒐めたのか、躰が現れるまでは顔の半分だけが闇に浮いているようで、その眼は斜め下を眄ていた。小窓から洩れた黛から黒へのグラデーションと不気味な皙い顔——絵を思い起こした。
「浅倉くん」
「あ、佐伯さん」彼女は黒い目を融いていつもの顔を見せた。
「残り……?」
「そう。進路のこと」厚い、絳い口唇をゆっくり横に広げて、並びの良い前歯が皓かった*。
「大変だね、いろいろ」僕は彼女の皙い首にぽつんとあるほくろの辺りに眼をやった。
「浅倉くんは、なんで」
「僕は、あの……」
「絵、見た?」
「え?あ、絵ね、すごいよね。びっくりした」
「なんで浅倉くんがびっくりするのよ」彼女は僕をその鋭い眼できっと刺したあとに、へんなの、と言って袖口まで覆ったセーターで僕の肩をつんと突いた。
「浅倉くんは、」
「僕は、その、特になにもなくて……」
「ちがうよ、」
嫌われている訣*でも、好印象という訣でもなくただ、話すだけ。
「浅倉くんも……」
「え?……」
「やっぱなんでもない。じゃあね、おつかれ」
 佐伯さんはセーターの袖口をふわっと肘から挙げた。鼻歌を遊み*乍ら*階段を升ると*、彼女は職員室のあるほうに曲がっていった。
 エントランスの扉をぐっと押すと、空気がにわかに弛緩した躰を包んで締めた。ふわりと熱を発つ耳が虚に痛んだために、赧くなっているのが解って、そうして口許が弛んだ。

*(ルビ)
撓った……しなった
恰で……まるで
已めない……やめない
讒く……わるく
皓かった……しろかった
訣……わけ
遊み……ずさみ
乍ら……ながら
升ると……のぼると

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