本の帯は、多分今も鞄の中。

とある冬。

がたんがたん、とテンポよく私の体を揺さぶるのは、私が愛用する在来線。
ヘッドフォン越しに聞こえてくるのは、車内アナウンス。次はどこ駅だとか言っているようだが、そこは目的地でないから何も聞こえない。

こういう電車の座席は妙に居心地が悪い。隣の人に何も言われぬよう、窮屈そうに身を寄せる。いまやかつてのコロナ禍のアクリル板は相当数余ってるだろうから、座席の間に挟んでやればいいのに、とか莫迦な想像をする。

そうして、肩幅が半分になるぐらいまで縮こまりながら、私は鞄のファスナーを開く。手を伸ばした先にあるのは、とある小説だった。
それは、いつか飛行機の小さなモニターの中で見た、アニメ映画の原作であった。

慎重に取りだして、最初の数ページをぱらぱらと捲る。見慣れない文が目に付いたので、一ページ戻る。不思議なもので、こんなにすし詰めにされている文字の集合体からでも、脳はすぐに私の考えるキーワードを見つけてしまうようだった。私はそこに焦点をあて、視線を下に移し始める。

かつて見たアニメ映画のおかげて、内容は大体覚えているのだが、今この本を読んでいる理由は、物語そのものを楽しむと言うよりは、映画では描写されなかった新たな発見をすることだった。こんなこともあったな。いや、こんなことあったか?と頭を巡らせながら、本を読み進める。

ふと、右手の小指になにかが当たるような感覚が走る。見てみると、本の帯が小指を刺すかのように撫でていた。そういえば、この手の小説なんかには必ず帯がついている。特に、映画化までされたその小説には、でかでかとその宣伝が載せられていた。

だが、小説を楽しみに読み進める私にとって、それは邪魔者でしかなかった。本の裏表紙に手を伸ばし、帯を離す。その帯をちらと覗くと、本の背あたりにあたる部分だろうか。小さな亀裂が入っていた。

ああ、このままこの帯を適当にカバンにでもしまえば、亀裂が進むどころか、表表紙側と裏表紙側がお別れしてしまうかもしれない、と、さっきまで帯を外していた手を逆再生する。

帯は、本を少しばかり鮮やかなものにしてくれるが、家で手に取る時や本棚に戻す時は、私の邪魔しかしないように感じる。既に宣伝という役目は終えているのだから、そこは労ってやりたいところなのだが。

帯を戻し終わり、再び読む体勢に入ると、やはり小指が当たる。もしそれをひとたび鞄に入れてしまえば、再びお目にかかる時にその姿に絶望することは目に見えているのだが、既に亀裂の入ったその帯に邪魔されながら本を読むということを、私には受け入れるだけの器がなかった。

せめてもの思いで、鞄に一緒に入っていたノートの間に挟んでおいたが、焼け石に水だろう。その帯のレストインピースを願ったところで、私はまた本を開く。

ふと、ヘッドフォンを通り抜ける車内アナウンス。どうやら目的地に着いたようだった。私は人差し指を栞にするようにして、本を閉じる。

そういえば、私はなにかと作品に感化されやすい。素晴らしい作品と出逢えば、自然と創作意欲が擽られるのだ。
今の私にとっては、その本がそうだった。私の指は、思わずnoteを開いていた。

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