諦め

昔、誰かが言った「諦めることって実は物凄いエネルギーを使うんだ」って言葉が妙に頭に残ってる。惜しいことに誰が言ったかがまるっきり思い出せない。

たしかにそうだな、と思う。これまで続けてきたこと、積み上げてきたものを手話すことは容易ではない。それまで、長い間血の滲むような思いをして積み上げてきたことを手離すことには、実は凄まじいエネルギーを要する。単に言えば、放棄するということだから。知識も恋愛も仕事も人間関係も、社会的な地位も、人生も。積み上げるには途方もない時間がかかるのに、手放すのは刹那だ。諦めるっていうことは引き換えに、多くのものを失う行為なのだ。

最も多くのエネルギーを要する諦めは、おそらく"人生"という、生きている限り誰もが向き合わなければならないその大きすぎる難題に対してだろう。

去年の3月、高校の同級生が浪人の末に命を絶った。どれほど悩んでいたのだろう。どれほどの覚悟を誓ったのだろうか。今となっては故人の思いを僕の物差しで推し量るなんて到底できない。目眩がしそうだ。人は自らこの世から存在しなくなる決断をするに至るとき、想像もつかないような物凄い量のエネルギーを消費するのだと思う。

だからなのか、世の中に諦めを抱いている人間、行動や言動から諦めを感じるような人間を、人生を諦めてしまった人間を見ると妙に惹かれてしまう。彼らにとって言葉は意味を持たない。諦めの境地に至るまでの彼等の闘争の歴史を思うとやるせない気持ちにもなり、どこか羨ましいとさえも思ってしまう。どうしてなのか。いつ消えてしまうのやらも知れぬ人間が放つオーラに、その儚さに、美しさに、嫉妬心を抱かずにはいられないのだろうか。僕もいつかそうなってしまいたいからなのだろうか。

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