〜僕の灼熱マニラ滞在記#1〜
7月中旬、大学の友達から何の前触れもなく一通のLINEが入った。ルーティーンのように既読を付けずにトーク画面を長押しする。内容はこうだった。
「今年の夏休み、スマトラ警備隊しない?」
一体何を言ってるんだこのアホは。しかし、詳しく聞いてみると、どうやらそれは、インドネシアのスマトラ島に一緒に行かないか?ということを意味していたのだった。彼の中で、スマトラ島はスマトラ警備隊の聖地なのである。そもそも、スマトラ警備隊とは相対性理論のアルバム、「シフォン主義」に収録されてる曲で、僕も昔から好きな曲だった。ノスタルジーに浸れると共に、失ってしまった思春期の繊細な心の琴線を未だに震わせてくれる傑作中の傑作だ。今年の夏は海外に行くつもりなんてなかったわけだけれど、この一言に折れて渡航を決意(なんて単純)。もう1人の友達を同じ手口で誘い、最終的には3人でスマトラ島を目指す旅に出ることになった。
僕達は全員、相対性理論というバンドが好きで、シンクロニシティーンの曲にも、シフォン主義の曲にもある程度の共通理解がある。カラオケでもよく歌うし、家で遊ぶ時はもっぱら相対性理論のアルバム「シンクロニシティーン」を流した。それぞれの都合を合わせ、8/24日にインドネシアの首都ジャカルタでまず僕と僕を誘った友人で合流、翌日に同じくジャカルタでもう1人と合流することを決めた。予定の都合上、現地までは3人とも別々での移動になる。現地での観光スケジュールも綿密に決めて、ホテル、広いジャワ島を移動するための航空券の予約など、着々と準備を進めた。僕自身は成田🇯🇵→マニラ🇵🇭→クアラルンプール🇲🇾→ジャカルタ🇮🇩という、2カ国を乗り継ぐ代わりに、抑えの効いた値段設定になってる航空券を確保することに成功した。これまで海外に2度ほど行ったことがあるが、それらはどれも複数名での移動だった。完全に1人で国際線に乗り込むというのは人生において初の経験だった。複雑なVISAや入国関係の申請、SIMの設定などをそれぞれ終え、バイトに忙殺されながらも旅の準備を進めていった。僕をスマトラに誘った彼は1人で東南アジア一周旅に出ており、既に海の向こうにいる。もう1人の友人はスケジュールの関係で一緒には行けず、僕が発つ翌日の便でジャカルタを目指す予定だった。こうして僕らのスマトラ島を目指す旅は幕を開けたのだった。
そして8/23。成田を発つ日だ。フライトの予定時刻は21時。しかし、遅延で22時に変更に。東南アジアの航空機ではよくあることだ。僕はというと相も変わらずデカすぎる成田空港に圧倒されていた。ターミナル1のビル内にあるシャワールームでリフレッシュし、出発ターミナルのターミナル3へと向かう。空港にはこれから世界各国へ旅立っていくであろう様々な人々が群雄割拠していた。軽装のバックパッカー、サラリーマン、家族連れ、大学生、国籍や肌の色が違う人々、など様々な人々が混在していた。そしてその光景は、明らかに僕に旅の始まりを予感させるものだった。なぜか僕にはその人々が心強い仲間に思えた。心に一抹の不安と孤独を抱えながらも、彼らは同じ旅人として僕の心のよりどころとなった。たとえ行き先はどこであろうと、これから海外に向かう同じ旅人なのだ。家族に逢いに行く人、長い旅に出る人、留学先に旅立つ人、母国に戻る人、様々な事情や背景があるだろう。そんなことを考えながら、おそらくはこの先の人生ですれ違うことのない、名前も知らない彼らに思いを馳せていた。
搭乗の諸々の手続きを終え、いざ、最初の乗り継ぎ地、マニラへ。夜の東京を見下ろしながら、気が付けば地上の建物は遥か遠く闇夜の彼方へ消え去っていった。機体は何一つの問題もなくマニラへ向かう。予定だと4時間程度で着くという。思い返せばここまでは順調そのものな出だしであった。しかし、一つ僕の中には憂慮事項があった。今回のフライトの予定では、マニラ国際空港での乗り継ぎの際に、到着ターミナルと出発ターミナルが異なっていた。到着はターミナル3であり、出発はターミナル1。そして、スルーバゲージ不可。これが何を意味するのかというと、乗り継ぎの際に手荷物を受け取る為に一度入国し、ターミナル間の移動をしたのちに出国手続きが必要になる、ということを意味していた。通常、国際線の乗り継ぎでは出入国の手続きは不要であるのだが、どうやらここマニラ国際空港ではそれが必要らしい。とりわけマニラ国際空港のターミナル間は距離が数㎞離れており、一度入国してから手荷物を受け取り、バスかタクシーを利用して別ターミナルまで15〜20分移動し、出国手続きをしなくてはならない。乗り継ぎ時間の猶予は6時間程度。多少、手続きや移動に時間はかかるけど、海外は3回目。まぁ慣れてるから大丈夫。なんとかなるだろう。そう思っていた。。。安いという安直な理由だけで選んだ複雑な乗り継ぎを要するジャカルタ行き航空券、選んだことをのちに後悔することとなる。
予想しているよりあっという間に入国手続きを終え、荷物を受け取る。同便で出逢って仲良くなった日本人の方の家族がマニラにいるのだという。現地のタクシーはぼったくりが危険なので、最も憂慮していたターミナル間の移動に車を出してくれるという。本当にありがたかった。まさかマニラの地で日本語話者との出逢いがあるなんて思っていなかった。この時、僕は心底安心しきっていた。空港の外へ出ると、まさしく熱帯夜というべき凄まじい熱気と湿気で、早くもフィリピンの洗礼を受けた。その日本人の方の家族の車に乗り込み、無事ターミナルの移動を終えた。出発ターミナルへと着いた僕は彼らと記念に写真を撮り、彼らに礼を言い別れた。ここからはまた1人だ。ターミナルに入る際に、空港の職員にパスポートの提示を求められた。ハイハイ、これを出せばいいのね、というテンションでパスポートを出そうとした時だった。
ん、ない。ない。いや、ない。どこにもない。ほんとにない。
やってしまった。幸先のいい旅のスタートだと浮かれていた矢先、僕はマニラ空港にて1人、パスポートを紛失してしまったのだ。それも、どこで落としたのか分からない。思い出せない。パスポートを提示できない僕は当然、空港内に入れるわけもなく門前払いされた。
そうだ、もしかしたら先程の日本人家族の車に落としたかもしれない。取り敢えず先程の日本人と連絡を取ろうとスマートフォンを動かすが、連絡先を交換し忘れたことを思い出した。僕はようやくここで自分がどれだけ恐ろしい状況に置かれているかを理解した。
そこからは出来る限り、努めて冷静に思考を巡らせた。どこまでパスポートを持っていたのか。落としたとしたらどこか。心当たりはないか。次の乗り継ぎまでに間に合うのか。残された猶予は4時間程度となっていた。
我を忘れて無我夢中で探し回ったため、そこからのことはあまり記憶にない。
熱帯夜のマニラ空港の中を汗まみれになりながらとにかく懸命に走り回った。職員や遺失物捜索センターを拙い英語で訪ね回った。何度も絶望と気持ち悪さと空港内の独特の蒸し暑さに吐きそうになりながら、走り続けた。しかし、その懸命の努力の甲斐もなく、ついに乗り継ぎの時間までにパスポートを見つけ出すことはできなかった。無念にも搭乗予定だった飛行機が次の経由地クアラルンプールへと旅立って行った。
これはすなわち終わりを意味していた。異国の地でパスポートを紛失した場合、大きく分けて2通りの手段がある。
ひとつは一時的な帰国用のパスポートの発行をすること。最短で1.2日で発行することが出来る。しかし、その一時帰国用のパスポートは発行が比較的容易である代わりに、帰国のみ可能で、第三国への出国は許されていない。つまり、インドネシアには行けなくなり、友達とは会えなくなり、日本に帰ることしかできなくなるのだ。
もうひとつはパスポートの再発行。これをすれば文字通りパスポートが手に入るので、第三国への出国は可能になる。しかし、手続きに非常に時間がかかる。2.3週間はザラにかかることも。
日付を見ると、8/24日である。僕はその後の予定の問題で、29日までには日本に必ず帰国しなければいけなかった。必然的に選択肢は帰国用のパスポート発行一択になる。無念の選択だった。
この瞬間、取ったホテルや航空券、ツアー、友達との旅程、すべてが水の泡となり、僕のスマトラ島を目指す旅はトランジット先のマニラであっけなく終焉を迎えてしまった。文字通りの絶望だった。憧れのスマトラ島はぼんやりとした輪郭を残して僕の頭の中から文字ごと消え去った。
突如訪れたひとりぼっちフィリピンパスポート無し帰れないという拷問のような鬼畜展開。勿論、頼れる日本人もいない。信じられない量の涙が溢れてきた。数分間その場に立ち尽くしていた。無力感で腰が抜けた。本当のひとりぼっちだった。
しかし、Instagramのストーリーにて現状を発信していた為か、本当に沢山の人が連絡をくれた。電話をかけてくれた友人に励まして貰い、今後のことや今すべきことを確認した。一緒に旅に行く筈だった友人への、一緒に行けない罪悪感もあった。散々泣いた後、1人じゃないんだと、なんとか気持ちを切り替えることができ、目標を最短で日本に帰ることとした。泣いてても仕方がない。外を見ると空が明るみ始めていた。不眠だったため少し空港内で体を休め、まずは帰国用パスポートの発行手続きの為、マニラの在日本大使館に向かうこととした。この一連の切り替えに関しては自画自賛ではないが、本当によく頑張ったと思う。何度も泣いて気持ちも切れかけながら、よくやったものだ、と。
空港内の職員の指示に従い、大使館からの迎えを待つことに。しかし、いくら待っても迎えが来ない。職員に問いかけると、そのうち来るから待ってろという。指示を受けてから既に5時間近くが経過していた。明らかに時間がかかりすぎだ。さすがに我慢ならなかったため、1人タクシーを捕まえ日本大使館に向かうことにした。空港を出て、グラブというアプリでタクシーを捕まえる。30分程度の移動時間を要し、大使館へ。しかし、ここで2度目の絶望に。その日は土曜日だったのだが、大使館の前にいた守衛に尋ねると、なんと大使館は火曜日まで休館だというのだ。絶望的な宣告だった。今日から3日間は確実に日本に帰ることができない。日本語が通じる人などおろか、日本人すらいない。友達も恋人も家族もいない。野放しにされたマニラの地で、人目も憚らずに泣いた。その時流した涙の量でアフリカの干ばつを救えるのではないかというほど泣いた。神様は僕にどれだけの試練を与えたら気が済むのか。僕が何をしたっていうんだ。
大使館の前であまりにも泣いてるもんで、通りすがりのフィリピン人に大丈夫か、と声をかけられた。その時の僕の心情は、心から安寧を求めていて、兎にも角にも日本人に会いたかった。日本語を聞きたかった。日本語を話せる人に会いたかった。安心したかった。そのことをそのフィリピン人に伝えるとこっちに来いと手招き。近くのツアー会社に連れて行かれた。正直、期待はしていなかった。東南アジアの人達の多くはそういった手口で人の心に漬け込み、商品の買い取りや高額な請求を求めてくることもザラにあるからだ。半信半疑のまま、ツアー会社に入った。「疲れただろう。少し休みなさい。そして少しの間待てるか」と言われ腰を下ろす。何分くらい経っただろうか。初老の老人がコツコツと革靴で地面を踏み締める音と共にツアー会社のオフィスの入り口からこちらを目掛けて歩いてきた。一体誰なのだろう。開口一番、流暢な日本語で彼は「お前、帰れないのか」と語りかけてきた。そう、彼は日本人だった。