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モニュメント、冷戦、加害と被害について 長崎市『平和祈念公園』

長崎市にある、平和祈念公園へいく。

前にも来たことがあるのだけど、昨年末にフランシスコ教皇が来られたこともあって、少しだけ雰囲気が違ってみえた。前回のヨハネ・パウロ2世の来日が1981年だから、38年ぶりのローマ教皇の長崎訪問だった。

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そのためか知らないけれど、平和祈念公園の中に設置されているモニュメントが妙に気になった。
『世界平和シンボルゾーン』には、この平和公園に賛同する各国からモニュメントが寄贈されている。どっしりした写実造形に母と子どもの像が多い。大人の男性像は、中央に鎮座する北村西望の『平和祈念像』以外は見当たらなかった。

どんな国が寄贈してるのかと、台座のプレートをのぞくと、そこには「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の文字が…。思わず面をくらってしまった。あらためてみると、確かに、これは社会主義リアリズムの農婦と子どもの像だ。

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もしかして、と他のプレートを見返すと、ドイツ民主共和国(東ドイツ)、中華人民共和国、キューバ共和国、ブルガリア人民共和国、チェコスロバキア社会主義共和国、ポーランド人民共和国などなど、社会主義国家がずらりと並んでいた。
一方、アメリカやイギリスのモニュメントはなく、あっても都市や州の単位での寄贈に限られているようだ。これはどういうことだろう。

社会主義圏の国からモニュメントが寄贈された時期は1980~1986年頃。まだ冷戦末期、彼らが辛うじて「インターナショナル」の野望を抱けていた最後の時代だ。
西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造が、ここにもあったのだろうか。
この平和公園にモニュメントを寄贈したソ連は、その時代、世界一の核兵器保有国だった。

ソ連がモニュメントを寄贈したのが1985年6月。ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任した3ヶ月後だ。その翌年の1986年4月にチェルノブイリ原発事故が発生、1989年11月にはベルリンの壁が崩れ、12月に冷戦終結 、1989,90年にはソ連の衛星国家が相次いで崩壊、そして1991年12月にソ連はついに崩壊する。
つまり、ここのモニュメントの半数近くは、すでに存在しない国家の名前が刻まれていることになる。何だか目眩がしてきた。

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くらくらしながら、他の場所を歩いていると、小ぶりな追悼碑と「中国人原爆犠牲者追悼碑」というプレートが目に入った。戦時中、日本軍によって強制連行された中国人もまた、この地で原爆によって亡くなったことが記載されていた。2008年と、比較的新しい追悼碑だ。

そこから少し離れたところにあるプレートには(つまり、ここにはたくさんプレートがあるのだ)、この平和公園の土地には、もともと『長崎刑務所浦上刑務支所』があり、そこで収容されていた囚人も全員亡くなってしまったと記載があった。そこには朝鮮や中国の人たちも収容されていたとある。

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僕はその時、前に香港の博物館でみた、日本軍による南方占領についての展示を思い出していた。そして、北海道開拓のことも。加害と被害が入れ子になっている様な、不思議な感覚に陥る。

あたりまえだけれど、その土地に赴くと、色々なものが目に入ってくる。来る前は単純に思えていたものが、一言では表せない複雑なものへと変貌し自分の中に溜まっていく。
今後、それがどうなっていくのか、まだ分からないし、もしかしたら不謹慎だ不道徳だと責められてしまうのかもしれないのだけど、それでも、とても大事なことのように感じている。

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