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時間と数、数字と文字、記号と絵について 下村奈那『10㎝を1秒とする(178-42-14)』

下村奈那『10㎝を1秒とする(178-42-14)』。
群馬青年ビエンナーレでみた作品。

グリッド上に墨で滲ませたり幾何学的な線や図が描かれていて、その端々に数字が記されている。
タイトルにあるように、長さと時間がテーマになっているみたいだ。書は時間を内包している。楽譜のようでもあり、計測器のようにもみえる。

この作品の中で気になったのは、数字の書き込みだ。どうして「数字」を書き込んだのか。長さや時間を表しているのかもしれないが、線描を記号に引き戻してしまうような手付き。数字はドローイングにならないのだろうか。時間を数字で表すとは。

時間は当たり前だがそれ自体は数字ではない。人間が天体の周期を観察し(1日の太陽の動き、30日の月の満ち欠け、それが12回繰り返されたときの太陽や星座の位置など)、そこから時計や暦(カレンダー)を生み出すことから始まる。時計や暦は天体と人間を繋ぎ、そこには数が介在する。

僕たちに馴染みのある十進法は、指の本数から来ていると言われる。10で区切ることに絶対性はなく、指が11本であればそれは変わっていた可能性はある。コンピュータは二進法の世界だ。
時間や数のルールはアプリオリなものではなく、天体や身体からアフォードされたものだ。それはマーク・チャンギージーの「一般文字理論」と似た構造を持つ。

そもそも「数字」とは何か。旧石器時代、骨へ削り込むことから始まったともいわれ、文字よりもずっと前に生み出されたものだ。文字のなかったインカにも「キープ」と呼ばれる計算表があり、数字は文字に先立つことが知られている。




認知心理学者のスタニスラス・ドゥアンヌは『数画とは何か』の中で、人間が瞬時に把握できる数は「3」までで、そこから先は認知的負荷が高くなるということを実証実験からあきらかにした。それは、世界中でつくられた「数字」の多くが、3までは数と同じ具象であり(一二三、I, II, III、١,٢,٣)、それ以降は抽象度の高い記号になる(四五六、IV, V, VI、٤,٥,٦)ことからもわかる。人間は3以上の数を認識し計算するためには、脳の外に記録する為の印が必要だったのだ。それは既にシンボル=文字の領域に入ってくる。


だとしたら、時間と数、数字と文字、記号と絵は、どのような関係にあるのだろう。それはグラフィズムの問題だし、人間の世界認識や文化の発生の問題だ。
この作品は、そのことを考えるきっかけを与えてくれたようで、印象に残っている。

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