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”良き勘違い”はいかにして可能か? -関川航平氏〈あの〉(独奏)を観て考えたこと-

国立国際美術館『トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために』で展示していた関川航平さん映像・パフォーマンス作品〈あの(独奏)〉を観る。いろんなことを考えさせてもらったので、自分の整理のために(至極自分勝手に、過分に妄想も含めて)鑑賞メモ。※写真は関川さんHPより

・点滅し続ける「あの」

会場には等身大のスクリーンがあり、そこで延々と映像が流れている。映像の中で関川さんは、何かを思い出すような振りとともに、ひたすら「あの水」「あの爪切り」「あのチーズケーキ」など、任意の単語の上に「あの」をつけ発声し続けている。映像の長さは8時間。編集なしの一発撮りだそうで、とぎれなく単語を発している。さらに会期中、毎週金・土には、本人による2時間のパフォーマンスを行なっており、そこでも「あの〇〇」を聴衆へ向かって発声し続けている。

この2時間のミニマルなパフォーマンスで繰り出された言葉を聞き続けていくうちに、自分の感覚が次第に変化していくのを覚えた(これは保坂和志「未明の闘争」の読書でも近い体験を得たことがある)。

「あの」+単語を聞くことよって、それに因んだイメージが自分の頭の中に呼び起こされる。そして、発声者の思い浮かべている「あの」とはなんだろう、彼の「あの」と自分が思い描いた「あの」は一緒なのだろうかと思ってしまう。これは自らの意思より早い反射的な反応なのだ。

しかし、関川さんによって発声される次の「あの」単語は、前の「あの」単語の文脈と何故かうまく繋がらない。単語と単語の間に関連性が思い浮かばなくなると、頭にあるイメージは崩れ、発声者の「あの」を共有出来ず戸惑ってしまう。

例えば、「あのセブイレブン」と言った後に「あのおでん」と言ってくれたのなら、「ああ、あれか」と、イメージの共有は出来た様に感じる。さらに「あのこんにゃく」「あの匂い」と続いたらイメージは更にディテールをはっきりさせることができる。しかし、「あのセブイレブン」の後に「あの湖」「あの達成感」と続いた場合、うまく図像やストーリーを思い浮かべられなくなってしまう。発話者にとってはそれらは繋がっているイメージだとしても、聞き手には繋がりを見つけられない。

この様に、2時間のあいだに繰り出された言葉たちによって、イメージを期待と共に点灯させ、途端に、失望と共に消失させられる。それを延々と繰り返していくうちに、次第に「あの」言葉たちを単なる音としてしか認識しなくなる(そして、その音は心地よい)。これは一体何が起こっているのか。

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・「あの」の共有不可能性

私たちは当たり前のように「あの」という言葉を使って生きている。そのことについて疑うことも考えないくらい日常的なものだ。そして、「あの」は他人と共有可能なものだと考えている。しかし、それは本当だろうか。 

例えば、小学校の卒業式の合声で、または同窓会での会話の中で、「あの運動会」と発声するとする。当然、小学校の時の運動会は、人によって異なる経験があったはずだし、中にはその記憶すら曖昧だと人もいるだろう。しかし「あの運動会」の言葉により、あたかも私たちは共通の経験をしているかのように錯覚してしまう。これは「あの戦争」「あの震災」と置き換えるとより理解できることもあるだろう。

人は「あの」が頭についた単語を聞いたとき、反射的に自らの記憶とリンクさせ、イメージを思い浮かべてしまう。彼が経験した出来事・感情は、私の出来事・感情とはやはり別のものだが、思わず"同じだ!"と思ってしまう。他人の痛みを自分のことのように感じてしまう。しかし、思い浮かべた「あの」は、自分の頭の中にしかなく、発話者の「あの」とは別ものなのだ。

これは、おそらく「仲間」の根拠を考える上でも示唆的だ。「あの出来事」「あの感情」を共有していると思うことが、その人を仲間だと感じる重要な根拠の一つとなったりする。「去年の『あの悔しさ』を忘れるな!」と言うコーチの言葉によってチームは団結し奮起する。しかし、「あの悔しさ」やはり幻想なのだ。例え8時間「あの」を相手に伝え続けたとしても、ひとつとして真に共有することはできない。どんなにイメージのディテール繋げていったとしても、いや繋げていくほどに、共有不能の壁に突き当たってしまう。つまり、原理的には「あの」の共有は不可能なのだ。 関川さんは『「あの」は"寂しい"』と言っていた。

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・「あの」の再現不可能性

これは、そのまま自分の中にある「あの」に対しても同じことが言える。私たちは、自分のなかにある「あの」は確固としたものがあり、それはずっと変わらないものだと思っている。それが記憶といわれるものになり、自己のアイデンティティにもなる。

しかし、唯物論的に世界を理解するのであれば、過去や未来は単に概念でしかなく、現実世界は常に"今"しかない。その場合、「あの」は脳が再構築したイメージでしかない。そして、自分の精神状態、知識、価値観の変化などで「あの」は変容してしまう。

例えば、両親に厳しい「まなざし」を注がれた経験があるとする。あの眼差しを思い出すだけでも暗く憎らしく惨めな気持ちになる。しかし、後に自分が親になった時、「あのまなざし」は愛情と弱さ故であったかもしれないと思い至る。その時、厳しいと思っていた「あのまなざし」が違ったように見えてくるという事はあり得る。その時、以前の「あのまなざし」と果たして同一と言えるだろうか。


・「あの」の勘違いは悪か?

「あの」は常に変容する。そして、それを同一だと思い込む=勘違いすることで、自己の同一性を担保できる。以前に思い浮かべた「あの出来事」と今思い浮かべた「あの出来事」が同一でないと感じるのであれば、記憶が崩壊し歴史がなくなってしまう。それは自己同一性を喪失してしまうと言うことだ(これは身体にも同じことが言える。物質的には循環が常に起こり全て入れ替わったとしても、生物の個体性は担保されていることになっている)。

この勘違いは忌むべきものではなく、自分が自分でいる上で必要なものだ。しかし、その勘違いによって、フェイクニュースやヘイトを生み出す原因にもなる。同時にこの勘違いがなければ”自分”や、もしかしたら愛情や芸術といったものでさえも生まれない。

私たちは、「どうせ分かり合えないのだ」と、シニシズムに浸ることは避けられなければならない。「あの」の共有感覚はエラー=勘違いだ。しかし、それは人間が生きる上で不可避で必要な勘違いなのだ。「あの」を安易に受け入れると、プロパガンダや友敵の原理に回収されてしまう。しかし、「あの」を全てを否定してしまうと、それにふくまれる豊潤なものも一緒に失ってしまう。

人が人として生きるために、個人(アイデンティティ)をつくり、家族をつくり、共同体をつくり、社会をつくっていく。その為に、歴史、感情、物語の共有を必要とする。だとしたら、その次の問いは、「『あの』を勘違いをしないためには?」でも「『あの』を共有せずに生きるためには?」でもなく、「私たちは、いかに"より良く『あの』を勘違いする"ことができるか?」ということだろう。


・良き”勘違い”はいかに可能か? 

関川さんは、パフォーマンスにより、「あの」の発声方法、身振り、時間、言葉の選択、言葉の数、それぞれを慎重にコントロールし、聴衆に「あの」の点滅を(説明・説得ではなく)体験させる。その手つきにこそユニークネスがあり批評性が宿る。パフォーマンスの中での関川さんは、友人であり、他者である。扇動者であり、啓蒙者であり、リアリストである。そして、それらのキャラクターを瞬時に入れ替え続ける(もしくは同時に演じ続ける)。

「あの」にまつわる問題系は、様々な分野で議論されてきたものでもある。その中で、今回の関川さんのパフォーマンスの核は、この問題系のエッジの部分、つまり、「あの」に付随する共有、記憶といったものの生成と消滅のプロセスを現前化させることではないだろうか。 

ただ、勘違いはしようと思ってできるものではない。”勘違いしよう”とした行為は、その動機により勘違いの定義から外れてしまう。 だから(これは逆説的だが)私たちは追い求め続けなければいけない。追い求めた先の勘違いこそ豊潤なものになり得る。勘違いとは、行為の先の結果に属する言葉といえる。だから、”良き勘違い”のために、真摯に愚直に世界と向き合わなければいけないのだ。 

おそらくこの"勘違いの仕方"について、関川さんは8時間発声し続け、毎週パフォーマンスするという苦行にも似た行為によって、私たちに問い続けているのではないだろうか。私たちは"良き勘違い人間"になることができるのだろうか。

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