武蔵野の風景は移民がつくった、のだとしたら 日高市『高麗神社』
埼玉県日高市にある『高麗(こま)神社』。
高句麗が新羅や唐によって滅亡された後(『白村江の戦い』で倭国もボコボコにされたあの時だ)、大和朝廷が空閑地であったこの土地に、亡国の民となった高麗人1799名を住まわせた。
以来、高麗郡として、彼らはこの未開の地に道をつくり、田を耕した。713年。1,300年も前のことだ。
明治以降に入間群に編入されるものの、この神社を初め、様々な土地の名に今も高麗の名前は残っている。
日本書記には684年に、百済からの渡来人を武蔵国に安置したという記事がでてくる。隣町の新座市は、元々『新羅郡』という名がついていて、高麗郡のすぐ後にできたらしい。
こうして書いていて思ったのだけど、この武蔵野の地に来て気になってるのが、開拓民や移民の人たちのことだ。
そのことを初めに感じたのが、新田開発と西武沿線の郊外に広がるマンモス団地の光景をみたとき。
思えば、知人に「先祖代々東京に住んでるよ」って人があまりおらず、田舎から上京してきた人ばかりだ、僕も含めて。あとは、江戸以前の人の暮らしがあまり見えてこないせいもある。
前に住んでいた別府も、生まれ故郷の北海道も、そんな土地だったということもある(山形はちがうけど)。
武蔵野の風景は移民がつくった、のだとしたら。
もちろん、それは僕の色メガネで、恐らく思い込みなのだけど、そのメガネから何かみえてくるかもしれない、もう少し目を凝らしてみたいなと、ぼんやり思ってる。
万葉集の詠み人も、国木田独歩も、よそ者としての想像力だった。
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