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その土地で生まれる思想と運動 『五日市憲法』

武蔵野台地の最南西の山あいにある「あきる野市」の一部は、かつては「五日市」と呼ばれていた。山のものと平地の産品がこの土地に集まり、定期的に市(いち)が立ったことがその名の由来だ。

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五日市と聞いて思い浮かぶのは『五日市憲法』だろう。この私擬憲法はこの土地でつくられた。1881年(明治13年)、江戸幕府を終わらせ生まれた明治政府は、まだ憲法も国会もなかった。板垣退助らがつくった政治結社「国会期成同盟(愛国社)」の大会で、これからの日本のあるべき憲法の案を、それぞれ各自考えて、来年持ち寄ろうと言うことが話された。

自分たちなりにこの国の憲法を考える、そんなことが全国各地で行われていた時代。その中で生まれたのがこの五日市憲法だ。当時は「日本帝国憲法」と名付けられていて、天皇大権を柱にしながらも、自由民権の思想がかなり流れ込んだ内容になっており、戦後の日本国憲法にも近い内容が盛り込まれていた。

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この私擬憲法作成の中心人物は、旧仙台藩から来た教師、千葉卓三郎と、地元の豪農の息子、深沢権八だ。
千葉の勤勉さと民権運動の思想、深沢の地方自治的(俺らのことは俺らでやるぜ)な気丈が、そこでうまく噛み合った。この私案作成にあたり、地元から20名ほど集まり、勉強会、研究会、議論を重ねてきた記録が残されている。憲法づくりから、民主的なプロセスがなされていた。千葉は当時29才、深沢は20歳だった。わ、若い。

そうして出来たこの草の根の憲法私案は、しかし、日の目を見ることはなかった。翌年には板垣らの要望どおり国家開催が約束されたため、この大会の役割も名前も変わってしまった。そのため、全国各地で作られたこれら手づくり憲法が議論の遡上に上がる機会は失われてしまった。

その後、政府主導によって1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」が公布された。そこに私擬憲法の内容が取り入れられることは一切なかった。それどころか、保安条例により自由民権運動は弾圧され私擬憲法の作成は厳しく禁じられてしまった。この草案は深沢家の蔵の中で長らく忘れられ、再び発見されたのは87年後の1968年だった。

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しかし、この山あいの小さな町で、どうしてここまでの水準の私案を生み出すことができたのだろう。そう思いながら、旧五日市の街を自転車で走ると、都会とは言えないものの、当時の景気の良さを偲ぶ風景がいくつか残っている。ここは、経済がまわっていた土地だった。

市が発達するところには、モノと情報が集まり、商人や地主が力を持つ。有力者による自治意識、学問や文化の庇護発展がみられるようになる。ここは江戸東京とも適度に距離があり、一方で海外からの情報にもアクセスしやすい。そうした状況の中で、主体的な自己や共同体の思想は育まれたのかもしれない。

五日市憲法は、歴史家の色川大吉らによって1968年に発見された。色川が「明治精神史」を出した4年後でもある。この本は1960年代の安保運動に触発され出版したと前書きに書かれている。明治初期の多摩地区の自由民権運動と、1960年代の学生運動を繋げようとしていたのだ。
多摩地区は自由民権運動が盛んで、今も市民による活動をそこかしこにみることができる。この地には思想と運動の歴史が積み重なっているように感じる。

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一方で、それらの実践が必ずしも成功したと素直に言い難いことも多い。過去の私擬憲法や自由民権運動は、学生運動末期の、例えば、浅間山荘事件と繋がっているのだろうか。白樺派の素朴なユートピアの実践との関係はどうなのだろう。今の政治状況やそれに対しての運動にどう影響しているのかしら。
歴史記述やエビデンスがあっても、その解釈によって評価は分かれる。両極の主張をする本もある。ましてや140字で分かるはずもない。

それでも、何とか知りたくて、僕は彼らの「夢の跡」の地に赴いているのかもしれない。多分。

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