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曽祖父と柳田國男が住んだ土地 『兵庫県福崎町』

兵庫県姫路市から北に20㎞弱のところに位置する福崎町田原地区へ。
ここは母の祖先たちが、北海道に移住する前に暮らしていた土地だ。

明治初期の住所と地図を頼りにそろそろと歩いていくと、目的地の田原町近辺に差し掛かる。すると「柳田國男の生家」と書かれた看板が。そうか、うちの曾祖父母と、柳田家(松岡家)とはご近所さんだったのか。

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柳田國男が晩年に書いた『故郷七十年』という本には、この田原村辻川の思い出が語られており、この土地での色濃い経験が後の民俗学への道を開かせたという。

柳田は1875年(明治8年)生まれ。曽祖父は明治6年生まれ。曾祖母は明治17年。柳田は12歳までこの田原町近辺にいたのだから、曽祖父とは学校か寺子屋で一緒であってもそうおかしくはない。

だとしたら柳田が『故郷七十年』で描いた景色は、そのまま曽祖父が観た景色と重なるところがあるはずだ。
柳田が文章で色々と残してくれているので、曽祖父たちの暮らしがイメージしやすくてありがたい。

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もっとも、曾祖父は、この地でいわゆる「馬喰(ばくろう)」でひと稼ぎしていたという話を親せきから聞いていたので(エビデンスはないが、上富良野にある馬の慰霊碑に彼の名前が刻まれているので、馬の商売はしていたのだろう)、地元の名士を多く輩出したインテリの柳田家(松岡家)とは縁のない暮らしだったかもしれない。
一方、曾祖母の方は、そんなやくざな稼業じゃなかったらしいけど、少し若すぎる。

ともあれ、ここら一帯の氏神が祀られている『鈴の森神社』へ。氏子の名前には、柳田や松岡はやはり多く、曾祖母の多田姓も多い。
境内には、生前の柳田が絵はがきの写真に使っていたという絵馬が飾られていた。

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神社の隣にある資料館へ行く。ふむふむと眺めていると、「松岡源之助」という北海道へ行ったという人物の紹介が目に入る。
彼は1873年(明治6年)に柳田や曽祖母と同じ辻川で生まれる。13歳で父親を亡くし、その後家計を助けるため大阪へ出稼ぎをしていた。そんな最中、北海道移住者の募集の話を聞き、1891年(明治24年)に単身北海道へ行くことを決める。

当時は北前船が大阪まで来ていたので、それにどうにか乗り込んだのかもしれない。そうして裸一貫で北海道へ入り、枕木製造などの木材業で財を成し、日本の木材王として知られるようになった。今では旭川の功労者伝に名前連ねている。

親せきからは「曽祖父母たちは松岡という人を頼って明治35年に北海道へ行った」という話を聞いていたので、おそらく源之助さんのことだろうと合点がいった。当時は「三重団体」「富山団体」など、地域で数十人から数百人単位で移住するチームが主流だったのだから、松井少年18歳の単身渡北は大冒険だったのかもしれない。

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そもそも、どうして僕の曽祖父母たちは北海道へ行くことになったのか。
一説によると(ソースは親せき)、当時、曾祖母の家系は長らく女の子しか生まれなかったそうだ。そのため、男を婿として迎え、子どもが生まれたら、婿は用済みと外へ追い出していたという。血筋よりも、地筋や「家」の存続を重要と捉えていた近世までの価値観がそうさせていたのだろうか。
3世代もの間、そのようなことが繰り返され(つまり男の子はずっと生まれなかった)、曽祖父母の代になった。しかし、彼らは「離れるのはいやだ」と産まれた子どもと一緒に家を出たのだ、という。

曽祖父は四男坊で、おそらく家を継ぐこともできず、曾祖母の家を出されたら行くところもない。じゃあいっそ、今はやりの北海道開拓で一発あててやるかといった、馬喰のバクチ根性がさく裂したというのも、あながち的外れな妄想ではないだろう。

ともあれ、曾祖母たちは親戚や使用人など10人にも満たない集団で北海道を目指すことになった。

曽祖父母たちの暮らした風景を歩く。
ここは、荘園として皇室領から九条家領、播磨を席巻した赤松家へと所有が移り変わる、温暖で米がよく採れた地域だ。その後は、銀山の為の馬車道や鉄道が走る交通の要所として栄えた。
見慣れぬ風景だけど、いいところだな。

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