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≪武蔵野と富士≫展 開催中です
10月から武蔵野にまつわる展示を、角川武蔵野ミュージアム5階「武蔵野ギャラリー」で開催しています(入場無料 2022年10月23日まで)。
今回は武蔵野と富士山がテーマです。展示の中から一部をご紹介いたします。
■武蔵野と富士
本展は、旧石器時代から人が住み続け現在も1000万人が暮らす「武蔵野」と「富士山」をテーマとした展覧会です。
武蔵野と富士山にどんな関係があるの?と疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。
もちろん、富士山は武蔵野にはありませんが、富士山の「風景」はこの地にもあります。平坦な土地である武蔵野からは、富士山をきれいに眺めることが出来ます。江戸時代にさかんに制作された「武蔵野図」には、必ずと言って良いほど遠景に富士山が描かれました。
武蔵野の「風景」にとって富士山は欠かせないものだったのです。
また、同じく江戸時代には富士山信仰が大いに流行し、武蔵野に住む人々もさかんに富士山へ旅に出かけました。地元には富士山を模した「富士塚」がつくられ、富士山に旅することが叶わない人々がその塚に登りました。武蔵野に伝承が多く残る「ダイダラボッチ」も、富士山にまつわる話がいくつもあります。
風景や信仰、旅といったものが、武蔵野と富士山を分かちがたく繋げてきました。
この展示を通して武蔵野の魅力を知っていただければ幸いです。
また、「川」「ハケ」「新田開発」「雑木林」「郊外」「旅」「移民」といった、武蔵野にまつわる《7つの謎》を解き明かすための本を約300冊取り揃えました。こちらも合わせてお楽しみください。
選書監修:赤坂憲雄・張大石・伊東弘樹
■風景としての富士
江戸時代につくられた地図『東都近郊図(文政13年 1816年)』には次のような文章が書かれています。
「武蔵野は藪百里の平原にして月光万里玉川に及び富士の嶺を照らし無双の景勝なり」
この時代は、藪の平原、月、そして富士が武蔵野の風景の不可欠な要素であったことがわかります。江戸時代にさかんに制作された「武蔵野図屏風」には必ずと言っていいほど富士山が描かれていました。
武蔵野台地の平坦な土地だからこそ富士山は際立って印象的にみえます。この地に「富士見」という地名が多いことからも、武蔵野の人びとは富士山がみえるこの風景を愉しみ大切にしたことがわかります。
武蔵野の風景は今も富士山と共にあります。
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平坦な武蔵野台地からは富士山をきれいにみることができます。
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鳥江戸の街並みを描いた絵の遠景に富士山の姿があります。
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ススキほか秋の草花を前景に描き、草に埋もれる満月、そして遠景には富士山を配してます。「武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲」(『続古今和歌集』源通方)という和歌のイメージに、東国の象徴である富士山が描き加えられています。
■信仰と旅によって繫がれる
武蔵野の人々にとって、富士山は信仰の対象であり、旅の目的地でもありました。
江戸期には「富士講」と呼ばれる富士山信仰が流行しました。富士山を信仰する行者たちが布教し民間に「講」と呼ばれるグループが組織されるようになります。
毎年、講内でくじ引きを行い、選ばれた人が富士山へ旅立ちました。信仰行事ではありますが、普段遠出をすることが少なかった武蔵野の人々にとって、この富士山詣は一種の娯楽でもあったようです。
武蔵野の民間伝承に多く残る「ダイダラボッチ」も、富士山にまつわる話がいくつもあります。この土地の昔話や言い伝えの中にも富士山は息づいています。
信仰や旅を通じて、武蔵野と富士は繋がっていたのです。
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富士講の60年に一度の縁年にあたる万延元年庚申(かのえさる)の年の富士登山の様子を描く錦絵。
庚申年に登山をすれば三十三回登ったのとおなじご利益が得られるとされ、富士山に多くの富士講の人々が訪れました。
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富士山に詰めかける富士山参拝者の様子を描いた浮世絵。山頂付近にも関わらず多くの人びとで賑わっています。菅笠に白装束、金剛杖をつき、鈴を振りながら「六根清浄お山は晴天」などと唱えながら登っていきました。
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東海道の各宿場や名所を鳥瞰図法で描いた絵図。右下に起点の江戸を置き、左上には大きく描かれた富士山、右中に名古屋、右上に終着点の京都と、蛇行するようにデフォルメして配置しています。地図というよりは双六のような愉しさがあります。
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東京から富士山頂上までの道筋を記した案内図。「一リ」「十八丁」など距離が記されており、富士講などの旅人はこの案内図を携えて富士山詣に行ったのでしょう。武蔵野から一週間ほどかけて富士山へ旅したという記録も残っています。
■富士塚とは何か
江戸時代に富士講が武蔵野の地に広まり、「富士塚」がつくられるようになりました。富士塚とはミニチュアの富士山。数m程度のものから10mを越すものまであり、富士山からはこばれてきた溶岩が積まれることもあります。
富士山まで旅することが叶わない、子どもや女性、お年寄りなどが、この富士塚に登ることで本物の富士山に登ったのと同じご利益が得られると言われました。
現在でも武蔵野には多くの富士塚が残っています。皆さんの住む地域にもまだ残っているかも知れません。
武蔵野の本を配架した本棚はこの富士塚をモチーフに制作しました。本の富士塚を巡ってみてください。何かの発見があるかもしれません。
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手前右には12mにもなる目黒の「元不二(=富士塚)」、遠景に本物の富士山が描かれた浮世絵。旧暦6月に山開きが行われ屋台が出るなど参詣者でにぎわったといいます。
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明治32年(1899年)に築かれた高さ12mほどの富士塚。山頂からは本物の富士山を眺めることもできます。現在は、地域住民の皆さんが結成した「荒幡富士保存会」により、定期的に大掃除やパトロールなどが実施されています。
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堀兼地区にある青柳浅間神社の富士塚。富士山から持ち帰った溶岩が張り巡らされ、山頂には「奥宮(おくみや)」が設置されています。近くには富士信仰と深いつながりのある庚申塔もあります。
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富士山は申(さる)の日に現れたとの故事から、「猿」は富士山の神徒とされています。富士山信仰にまつわる「浅間神社」の祭日は申の日で、特に初申祭は例大祭として盛大に行われます。富士塚の登り口付近に置かれた猿像は合掌した姿、山頂の社祠の前に置かれた猿像は、御幣や鈴を持つ姿をしています。
■富士山を運ぶダイダラボッチ
武蔵野にはダイダラボッチの伝承が多く残っています。ダイダラボッチは、ダイダラ坊、ダイジャラボッチャなど呼び名は様々ですが、頭が雲に突くほど巨人で、富士山など大きな山を運んでいるというイメージはおおむね一致しています。
ダイダラボッチの伝説は窪地と関わるものも多く、武蔵野に点在する窪んだ土地のいくつかはその足跡であると言い伝えられています。土木や治水など人の助けとなることもあり、妖怪というよりも神様のような存在ダイダラボッチ。武蔵野の土地がもたらすインスピレーションの、ひとつの象徴と言えるのかもしれません。
人々はダイダラボッチに何を託したのでしょうか。
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以上、
これ以外にも様々な展示がありますので、ご関心がある方は是非お立ち寄りください。
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