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人の気持ちが積み上がってできている 狭山丘陵『荒幡富士』

「村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ」という宮本常一先生の(正確には宮本先生のお父上)教えに従い、どこか高いところを、、と探したけれど、ほぼ平地と崖線しかないこの土地。そんな中みつけたのが、所沢にある狭山丘陵にあるこの山。

行ってみると、うーん、ものすごい変な山。きれいに整備された丘の上に、子どもが描いたような単純な円錐形のカタチ。そこに庭師が植栽したような木々が貼り付いてる。これは一体何なのだろう。

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山の近くに添え付けられた看板には以下のように書かれていた。


"旧荒幡村には昔から浅間神社のほか、三島・氷川・神明・松尾の各社がまつられていたが、明治5年の社格制定で浅間神社が村社に列せられ、三島神社以下は無格社となった。
そこで村内の統一と民心の安定をはかるため、明治14年9月村内浅間久保にあった浅間神社を西ヶ谷松尾神社の地に移し、それと共に三島神社以下を浅間神社に合祀することになった。
そのため浅間神社の傍にあった荒幡村富士講信仰のシンボル富士塚も移転構築することとなった。そして以前の幾十倍も大きい富士塚が明治17年に起工し、同32年に竣工した。
これは村内の氏子・信者はもとより、近隣の村々の有志も加わって営々として築きあげたものである。かくて荒幡富士は村民の心の大きな依り所となり、かつ近郷近在に誇る最大級の人工の富士となった"。 

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この山は江戸時代に関東地方で流行った『富士塚』だったのだ。浅間神社の総本社は富士山にあり、富士山の修験に基づく山岳信仰『富士講』のシンボルとして、この富士塚がよくつくられていた。既存の山や古墳を富士塚に見立てたもののほか、こうした石や土を人為に盛り上げたものもよくあったそうな。

明治政府による国家神道政策に、村々で親しまれていた神社仏閣が犠牲になるのはただただ哀しいけれど、それぞれの神社を合祀し、人工とはいえ富士塚ごと移してしまうとは。そういえば南方熊楠もこの神社合祀に怒り反対していた。

しかしながら、この山からは住民たちの並々ならぬ想いが伝わってくる。なにせ元よりずーっと大きくしてしまったのだ。
関東大震災でかなり損傷し、戦後には荒れ果ててしまったこともあったそうだが、その度に、地元民によってこの人工山は修復維持され続けている。

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近づいてよくみると、山肌には合祀された神社の石碑がいたる所につき刺さっており、この植栽も相まって、デコレーションケーキの飾りみたいな印象を受ける。

登山口(?)から山頂までの高さは10m。なので1分もしないうちに登れてしまうが、きちんと合数を刻んでいたり、頂上から本物の富士山を望めるのも味わい深い。
まあ、富士塚とは元々そういうものらしいのだけど。

みるほどにキッチュな荒幡富士。でも、この山には地元の人たちの気持ちが積み上がってる。そう思うと、だんだんといとおしく感じてくるのだ。

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