「天皇機関説」事件をめぐる政治闘争

 日本学術会議の任命拒否問題との関係で俄かに注目を集めているのが、1935年に日本の政界を揺るがした「天皇機関説」事件である。

 この事件のきっかけは、1935年2月18日に第67回帝国議会の貴族院本会議において、菊地武夫議員が、前年まで東京帝国大学法学部で教鞭をとっていた美濃部達吉博士の著書である『憲法撮要』や『逐条憲法精義』を槍玉にあげて、日本国を法人と捉え天皇陛下をその最高機関として位置づける学説(天皇機関説)を批判したことに始まる。同日の貴族院本会議では、菊地議員に続いて登壇した三室戸敬光議員や井上清純議員も、立て続けに天皇機関説を批判した。

 これに対し、美濃部博士は同月25日に貴族院で「一身上の弁明」を行う機会を得たが、攻撃派は反発を強め、同月27日、今度は衆議院の予算員会で江藤源九郎議員が天皇機関説を激しく攻撃した。そして、翌27日には、天皇機関説は「不敬罪」に当たるとして、江藤議員が東京地方裁判所検事局に刑事告発を行った。

 言うまでもなく天皇機関説自体は、天皇陛下が「君主」であることを否定するものではなく、天皇陛下の行為はそのまま日本国の行為とみなされると解する学説だったため、この考え方が、その後の日本が歩んだ太平洋戦争へ道を止める力を持ちえたか否かは必ずしも明らかではない。しかしながら、天皇陛下を担いで軍国主義を推し進めようとしていた勢力にとっては、天皇陛下自らがその大権の行使に関し自主的に憲法という「箍(たが)」をはめておられると考える天皇機関説は、想像以上に目障りだったに違いない。

 当初、岡田啓介首相は、政治が学者の説に口出しすべきではないという態度を貫いていたため、内務省も、司法判断を静観する姿勢を示していたが、天皇機関説事件をきっかけに盛り上がった「国体明徴運動」に押され、独自に行政処分(発禁処分)を検討することとなり、4月7日に美濃部博士の事情聴取を実施した。これを受けて、翌8日には美濃部博士が『憲法撮要』や『逐条憲法精義』は増刷しないとの声明を出したが、翌9日、岡田内閣はこの2冊に『日本憲法の基本主義』を加えた3つの著書について発禁処分を行った。一方、刑事告発については、9月18日に不起訴処分となったが、同日、美濃部博士は天皇陛下の勅撰によって就任していた貴族院議員を辞職することで、政治の舞台から身を引くことになった。

 実は、天皇機関説は美濃部博士が提唱した独自の理論ではなく、当時の憲法学界では通説と呼んでも過言ではない学説だった。最初の提唱者は、日本の憲法学の祖とも言える末岡精一博士であり、その後任として東京帝国大学法学部の講座を引き継いだ一木喜徳郎博士や、京都帝国大学で教鞭をとっていた市村光恵博士や佐々木惣一博士らも天皇機関説を説いていた。にもかかわらず一木博士の弟子である美濃部博士がターゲットになったのはなぜか。おそらく美濃部博士が貴族院議員として政治の場に身を置いていたことが影響しているだろう。その意味で、天皇機関説事件は学者の言論を封殺した事件として「学問の自由」に深く関わるものであることは確かであるが、そこには様々な「政治闘争」が絡み合っていたことを見逃すことはできない。

 では、どのような闘争が絡んでいたのだろうか。美濃部博士自身は、当時、日本の国体として「天皇主権」を明確化しようとする右翼団体から、強い反感を買っていた。そのきっかけとなったのは、1930年4月22日にロンドン海軍軍縮条約を締結した政府を天皇の統帥権の干犯だと批判した日本海軍の軍令部に対し、美濃部博士が新聞各紙で「政府擁護論」を展開し、統帥権の干犯には当たらないという考えを示した出来事だった。さらには、陸軍省新聞班が作った「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットを雑誌『中央公論』で痛烈に批判したことも、批判を招いた原因として挙げられる。

 美濃部博士に対する攻撃の背後に、右翼の論客である蓑田胸喜氏が暗躍していたことは良く知られている。蓑田氏は、1933年に京都大学の滝川幸辰教授の『刑法読本』と『刑法講義』が発禁処分となった事件(いわゆる滝川事件)で名を成した人物であるが、その後も東京帝国大学の赤化思想を排除することに力を注いでいた。この蓑田氏と学生時代から親交があったのが、東京帝国大学で憲法を教えていた上杉慎吉教授であった。上杉教授は、同じく東京帝国大学の教授で「天皇主権説」を唱えていた穂積八束博士の愛弟子で、その憲法の講座を引き継いでいた。美濃部博士とはライバル的関係だったこともあり、1912年ごろには両者の間で激しい論争が繰り広げられた。この学問上の争いが蓑田を介して政治の舞台で再燃したのが、天皇機関説事件だったと見ることもできる。

 天皇機関説事件は、美濃部博士とは直接関わらないところでも様々な政争に絡み合っていた。まずは、陸軍内部に古くからあった「皇道派」と「統制派」の対立を指摘することができる。前者は、主として部隊付の将校らが中心である「非エリート」集団であったのに対し、後者は陸軍省や陸軍参謀本部などに勤務する「エリート」集団であった。皇道とは、天皇陛下に絶対的に仕える道を意味するもので、リーダーであった荒木貞夫大将がよく口にする言葉だった。このネーミングからもわかるように皇道派は、天皇機関説を排撃する側に立って論陣を張ったが、その影には統制派を追い落とそうとする思惑も見え隠れしていた。1934年に陸軍大臣に就任した林銑十郎大将が、軍務局長に統制派の永田鉄山少将を当てたことや、皇道派の指導者の一人である真崎甚三郎対象を陸軍教育総鑑から罷免したことが、皇道派の怒りを買い、ついには永田局長を斬殺する事件にまで発展した。天皇機関説事件には、こうした陸軍内部の勢力争いが持ち込まれていた。

 天皇機関説事件は、岡田内閣に対する倒閣運動とも絡んでいた。天皇機関説を排撃する衆議院決議案を取りまとめた鈴木喜三郎議員は、立憲政友会の総裁を務めていた。立憲政友会は1900年に伊藤博文らが創設した日本最初の本格的な政党であるが、議会の多数を占めていたにもかかわらず、総理大臣の座を岡田首相に譲る形になっていた。当時のキングメーカーは、西園寺公望ら「重臣グループ」と呼ばれる人々で、議会の勢力とは無関係に総理大事が決められていた。これに不満を抱いていた鈴木議員らは、国体明徴運動に対する対応で窮地に立たされていた岡田内閣を倒す道具として、天皇機関説事件を利用した面もある。

 そして、最後に指摘すべきは、美濃部博士の師匠である一木博士を追い落とそうとする勢力の動きである。天皇機関説事件が起こった当時、一木博士は枢密院議長の要職についていた。枢密院とは明治憲法で定められた天皇陛下に対する諮問機関で、そのトップである議長は、国政における極めて重要な地位にあった。このポストを狙って一木博士を追い落とそうとしていたのが、枢密院副議長を務めていた平沼騏一郎氏だった。平沼氏は、1924年に創設された「国本社」という当時最も有力な右翼団体の総裁だった人物で、日本の軍国主義者のリーダー的存在であった。平沼氏と一木氏の間の確執について1935年3月17日付の東京日日新聞は、「今次の美濃部博士の学説問題については、機関説を排撃する方面が多く平沼男と近い関係にあると同時に、機関説排撃は美濃部博士よりはむしろ間接に一木男を攻撃する目的に出ているとの観察が、政界で有力におこなわれている」と報じている。

 このように天皇機関説事件は、政府が学者の学説を排斥した事件という側面を持つものの、それにとどまらず、学者だった者が政治の中枢で活動していた結果、様々な政治闘争に巻き込まれたという側面も有している。その意味では、その後の日本が太平洋戦争への道を歩んだ原因を分析する際には、天皇機関説事件を単独で評価するのではなく、それを取り巻く様々な政治闘争の中に事件を的確に位置づけて議論していくことが必要であろう。

 最後に昭和天皇が天皇機関説事件をどのように見ていたかを付言しておきたい。菊地武夫議員が貴族院本会議で美濃部博士を批判したのは1935年2月18日のことであったが、昭和天皇はその3週間後である3月11日に、侍従武官長であった本庄繁陸軍大将に天皇機関説を支持する見解を述べておられる。また、4月9日には同じく本庄大将に対し「天皇を国家の生命を司る首脳と見て、他の者を首脳の命ずるところによって行動する手足と見るなら・・・敢えて我が国体に悖(もと)るものとも考えられない。」と述べられた。さらに、処分を受けた美濃部博士に関して「美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか。ああいう学者を葬ることは頗(すこぶ)る惜しいもんだ」と述べられたと伝えられている。

 このことからも明らかなように、天皇機関説事件をめぐる政治闘争の中で最も遠くに身を置いておられたのは、実は当の天皇陛下ご自身であった。この奇妙さこそが太平洋戦争直前の日本の不幸な現実だったことを、天皇機関説事件は改めて思い起こさせる。

参考文献:尾崎士郎『天皇機関説』(1951年、文藝春秋新社)、宮沢俊義『天皇機関説事件(上・下)』(1970年、有斐閣)、宮本盛太郎『天皇機関説の周辺』(1980年、有斐閣)、山崎雅弘『「天皇機関説」事件』(2017年、集英社新書)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?