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公園


大学へ行くときは朝なので、朝に電車に乗る。北鎌倉を抜けた電車が大船駅に侵入するときの、線路内に群生しているススキのあいだを浮かぶように低速していく瞬間があって、そこだけどこか遠くの土地を移動しているような、白い車窓から数秒のあいだ目が離せなかった。

戸塚へ着くと電車を降りて、同じホームの反対側まで短く歩く。そこへ次の電車が流れ込んできて、それに乗る。電車にはさっきと同じくらいのたくさんの人がいて、知っている人はいないと思う。知らないたくさんの人。さっきまで乗っていた電車にも、同じくらいの人たちがいた。でもさっきまでいた人たちとは別の、たくさんの人がこの電車にも乗っていて、さっきと今、それぞれ目の前にいる人たちの違いはなんだろうかと考えてみて、うまく答えが出ないうちに電車が動き出す。ゆっくりとした、重さに由来する音を立てて光の中を走りはじめる。身体をくねらせ鞄の底から水を取り出す。水道水を含んだ口に斜めに強い日差しが当たる。

今朝みた夢の細かい出来事や場所はよく覚えていて、全体の流れが思い出せないあの感じは、持ち手のない縄跳びみたいに紐の部分だけが宙に浮かんでいて、はじまりとおわりがそれぞれ消えてしまった。そのうちにすっかり忘れてしまう。今覚えているところもぜんぶ。思い出すこともできないくらいに、みえない深さへ送り込まれていく。それはたぶん距離の遠さとは違う。とても自分に近い場所で、失われてしまうものがあるという、喪失の記憶で、夢の死骸のようなものだ。

他人の服の匂いが、窓の内側で混ざり合っている電車は、眠りながら社会そのものになりつつあるひとりの人間を上野で降ろし、北へ向かって離れていった。階段を上る。風に身体を、触られないよう肩を尖らせる。日本、アメリカ、中国の言葉を扱う唇が、同じことを3度にわたって言うアナウンス。上野駅公園口のそれが、その日初めて耳にした人間の言葉だったと思う。



web版・日日の灯 2024.01.16
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