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『MEMORI』第0号[後編]

 さて。ここからは第0号の特集記事ということで、前編にて登場した「エンパシー」の概念について深掘りしてみようと思う。MEMORIを読むうえで最低限理解しておいてほしい点はすでに述べてあるので、さらに興味があるよ、という人はここからの内容をチェックだ。

エンパシー...何それ??

 そもそもの話、みんなは「エンパシー」の単語を聞いたことはあるだろうか。きみがもし「エンパシー」という語を最近聞いた、というのなら、それは去年日本でヒットしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』という本が関係しているかもしれない。「世界一受けたい授業」などのテレビ番組で取り上げられていたのを見た人もいるんじゃなかろうか。
 その本文の中に出てきた語が「エンパシー(empathy)」だ。これは日本語で主に「共感」と訳される。著者の息子さんがエンパシーについて「他人の靴を履いてみること」と言うシーンは印象的だった。
実はこの「エンパシー」、もしくは「共感」の実態は、わたしたちが思っているより難しい。少し突っ込んだ話をしてみよう。

「エンパシー理論」の話

 明瞭なエンパシー理論を打ち立てたのはエイミー・コプランという哲学者である。彼女によると、エンパシーには
 ①情動の一致
 ②他者本位の視点取得
 ③自己と他者の「明確な」区別
が必要なのだそうだ。しかし。
「いや、情動の一致って?他者本位の視点って?」と頭に?がいっぱい飛び交うと思うので (筆者も最初はどういう意味かさっぱりだった) 簡単にしてみよう。
 まずひとつめ。情動の一致。字面からだと「気持ちをそろえる」ことかと思うのだが、これは「感情移入」とは違う。感情移入というと、「なぜ相手がその考えに辿り着いたか」と考えるプロセスを飛ばして、外側の感情だけを考慮するものだ。あくまでもその人の立場や心情を理解したうえで、気持ちに寄り添うのが情動の一致である。
 ふたつめ。他者本位の視点取得。みなさんは「もしわたしが○○さんの立場だったら…」みたいなことを言った経験はあるだろうか。これが他者本位の視点取得かな?と思ったそこのアナタ。なんとこれは違うらしい。なぜならこのセリフには「わたし」という単語が入っていて、「『わたし』が○○さんの立場だと仮定した」ときの話をしている。それは「他者本位」ではなく「自分本位」なのだ。いやあ、これはむずかしい。これだけでももう「エンパシー」が途方もなく難しいプロセスだとわかる。
 そしてみっつめの、自己と他者の明確な区別。これは文字の通りで、自分と他者を分けるものが何であるか理解していることを指す。これまでに説明した①情動の一致も②他者本位の視点取得も、自分と他者がどう違うかがわからなければ行えないことに気づいただろうか。つまり「自分がひとと違ってこそ」相手のことを理解できる、という前提が存在するのだ。
 だからこの三つの要件を踏まえてエンパシーを簡潔に説明すると、「自分と異なる考えや立場を理解し、他者を想像する能力」になるわけだ(前ページ参照)。しかし何度も言うが、中身は本当に複雑である。

複雑で身近なエンパシー

 特にエンパシーを理解しようとするうえで難しいと感じるのは、「シンパシー(同情)」との区別がつきにくいところだと思う。例えば友達が先生に怒られて悲しそうにしているのをみて、自分も悲しくなった。という状況下で働いているのは「シンパシー」である。シンパシーはあくまでも感情の動きだけで完結する状態をさす。他方でしっかり「考える作業」を伴うのがエンパシーなのだ。こう聞くと「エンパシーって身近じゃない?」と思うだろうが、実は日本人の五人に一人はエンパシー体質だと言われている。ひとの気持ちやひとについて考えやすい民族だから、きっとこの概念に親しみを覚えるひとも少なくないはずなのだ。

 エンパシーについてはこれくらいにしておこう。とにかく、「エンパシー」にはわたしたちが普段使う「わかる」より重みがあって、区別のためにMEMORI上では「エンパシー」と表記していくことを覚えておいてほしい。
そして、次号からの企画に期待しておいてくれ。

<本文>真白千秋 <編集>澄田杏

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