『いくさの底』と8月15日

『いくさの底』(古処誠二、角川書店)
https://www.amazon.co.jp/dp/404106175X


書評家の杉江松恋さんの投稿を眺めていて、ぜひ読んでみようと思い立った作品。以下に書くような、戦争についてのあれやこれやを考えさせるところが本作の大きな魅力だが、本当にすごいのは、この作品が「イデオロギーを排除したミステリー作品として一級品だ」というところかと思う。

8月15日は終戦の日(敗戦の日)、また日本政府としては「戦没者を追悼し平和を祈念する日」であるので、わたしも妻と、さきの戦争と平和について少し話をした。この日に対するふたりの感覚はかなり近いかもしれない。それは一言でいうと「むなしい感じ」である。
その感じを加藤典洋氏さんの文脈(『敗戦後論』など)でいうなら、「日本の侵略戦争以降、『日本人』という主体がなくなってしまっているから」ということになる。たしかにそのとおりだと腑に落ちる。ただしそこから先の議論(「憲法を選び直し」うんぬん)についてはちょっと、いやかなりついていけないところもある。またそのむなしい感じを白井聡さんの文脈(『永続敗戦論』など)でいうなら、「戦後ずっと続く『敗戦の否認』をやめて、敗北状態を終わらせなければならない」ということになる。そのとおり、われわれは敗戦国であり、いまも連合軍(アメリカ)の占領状態にあるのだと思う。
「むなしい感じ」は、2011年の東日本大震災と原発事故、そしてその処理についての文献を読むときにもひしひしと感じられる。『シンゴジラ』を観ても感じる。最近ブームとなった田中角栄についての本を読んでも感じる。白洲正子を読んでも、カズオ・イシグロを読んでも、村上春樹を読んでも、とにかくいたるところで感じる。いまだったら『坂の上の雲』(司馬遼太郎)を読んだって感じるのではないか?
なぜむなしいのか? その理由はいくつかありそうで、そのどれもうまく言葉で表現できないが、なかでもわたしにとってもっとも大きな理由が、『いくさの底』の前作である『中尉』(古処誠二、角川文庫)の解説(片山杜秀さん)に明示されていた。本作は、敗戦間近のビルマ戦線における、ある軍医(中尉)の話である。
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『中尉』と『ビルマの竪琴』とのあいだには、幾つもの共通点がある。戦争末期から敗戦直後のビルマを舞台に日本陸軍の軍人や兵士を描いていること。東南アジアの諸民族の中でも日本人と面差しが特に似ると、ビルマ人が「大東亜戦争期」に言われていた事実をふまえ、『ビルマの竪琴』は竪琴の名手である水島上等兵を、『中尉』は題名役である軍医中尉を、ともにビルマ人と見分けのつかないくらいにビルマとなじんだ人物として描き出していること。そしてふたりとも軍隊を離れて失踪してしまうこと。さらに水島上等兵も軍医中尉も白骨街道と称された日本軍敗走の道筋を辿り、日本兵の無数の遺体と出会う過程で人生の運命を動かされてゆくこと。そのほかにも重なる要素はとても多い。
 だが『中尉』は『ビルマの竪琴』を単に真似ているのではもちろんない。筋書きを似せて読者に『ビルマの竪琴』を思い出されることで、かえって違いを浮き彫りにし、『ビルマの竪琴』のメッセージを見事に相対化する。『中尉』とはそういう小説ではあるまいか。
 両者の相違を乱暴に言ってしまえば、『ビルマの竪琴』は戦争への反省と平和主義への回心という戦後的理想のもとにすべての筋書きをまるめてしまうのに対し、『中尉』は戦争末期から敗戦直後にかけてビルマで過ごした日本の軍人兵士の思想や心情にかなりリアルに同時代的に寄り添っている。
[中略]
……敗戦直後、日本人は素直に平和と民主主義を信じようとした。『ビルマの竪琴』の表わすのはその熱気である。だが、すぐに藪の中へと入ってゆく。黒澤の『羅生門』[引用者註:映画『羅生門』の原作は、芥川龍之介の『藪の中』である]は、そういう戦後のニヒリズムを摑まえたと評された。平和を追求してもアメリカの軍事力に守られてこそ。戦争か平和か。文化か経済か。アメリカかソヴィエト連邦か、資本主義か社会主義か。誰が敵で誰が味方か。物事はたちまち単純に信じられなくなる。「藪の中時代」の始まりである。
 それからの長い戦後、われわれは『ビルマの竪琴]の美しい理想に心を揺り動かされながらも、藪の中を彷徨い続けているのだろう。同じはずの出来事も人の立場や兵の種類が違えばまったく違って見えてくる。「薮の中時代」之『ビルマの竪琴]。そういう無くてはならない小説がようやく現れた。
(『中尉』(角川文庫)、247〜251ページより)
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片山さんの論旨に納得できない部分もある。それに論として強引なんじゃないかと思うところもある。でも、『ビルマの竪琴』の熱気から遠く離れて、いまわれわれは「戦争と平和」についてニヒリズムをも超えた地点にいるという認識は正しいかもしれない。この地点から見渡すと、朝日新聞の記事も産経新聞の記事もまともに読めない。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑の碑文)も、「戦後レジームからの脱却」(安倍首相の発言)も同じように意味のない文言に思えてしまう。ネトウヨもパヨクも同じようにアホなんじゃないの? と思ってしまう。
ところが、そんな地点にいても心に訴えかけてくる戦争小説というものがあるのだということを、ぼくは『いくさの底』を読むことで学んだ。著者が以下のURLのインタビューで言っているように、「大状況よりも小状況を描くのが小説」というところにグッときた。
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大状況よりも小状況を描くのが小説
──本書は、軍に雇われた民間人である通訳の依井の視点から描かれています。思い返せば、ほかの古処作品でも、勇壮で傑出したヒーローは皆無で、補給、医師、看護、語学、子ども、新聞記者、警備といった、いわば後方部隊の非戦闘員やアウトサイダーの視点から描かれたものがほとんどですね。
古処:戦地だから兵隊、兵隊だから戦闘というのは固定観念であって、現実にはあらゆる種類の人間がいました。そもそも軍隊自体、非戦闘員のほうが多い。戦闘員であっても大半を非戦闘時間で過ごします。スタンダードな戦記では入営から終戦までが記述されますが、敵影を見たというシーンはほとんどない。もっとも、見た人は亡くなられた確率が高いわけですが、しかし戦地では敵が見えないというのはひとつの真理でもあります。日常的には、現地住民との接触のほうが主任務とすら言えます。兵隊は生活を工夫しながら、現地の人と泣いたり笑ったりして暮らしていた。その事実はないがしろにしたくありません。
(ウェブサイト「カドブン」より)
https://kadobun.jp/interview/27
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戦争について語るときに、このような視点を忘れると、とたんに絵空事のように聞こえてしまうのかもしれない。自分は「過ちは繰返しませぬから」と墓前で誓えるのか? 自分は「戦後レジーム」から本気で脱却したいと思っているのか? そんなことを考えた。そういう風に考えないと、「戦争」がいまの自分のありようとつながらないのだ。

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