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ロマンポルノ無能助監督日記・第18回[映画って“持つ”もの?加藤彰監督・荒井晴彦脚本『宇能鴻一郎のあつく湿って』でキスシーンやっちゃった]


助監督1年半仕事して、改めて思う。助監督は監督修行への学びの道なのか?
仕事しながら「映画を勉強している」、ということか。
そもそも「映画を学ぶ」とは、どういうことなのか?
先輩助監督のなかで、「学校で映画を勉強した」という人は稀だった。
『炎の舞』のチーフ中川好久さんが、唯一、日大芸術学部出身だったと思う。

実は僕も、日大芸術学部映画学科・監督コースを受験し、合格していた。
筆記は良くて、面接のとき、“面接官にも欲しがられているなぁ、この目は”と思った(錯覚かも知らんけど)。
が、私立大学と公立大学の授業料が極端に違う時代で、国立は入学金5万円で年間授業料3万6千円、日大は明確には覚えて無いが、入学金30万、年間授業料50万円くらいだったろうか、とてもウチで払い切れる額では無く、本格的なバイトをしなければならず、映画を見る時間も無くなるだろうと思って、学芸大学を選んだ。
(国立大学の授業料は、僕が卒業する頃には3倍になったが、在学中は入学時のままであった)(昭和51年度から9万6千円)

また、「現役合格で国立大学に行く」という見栄的なものが、「好きな映画を勉強する」意欲に勝っていて、国立大=エリートコースという、昔からの固定観念が強くて、母親はそうでもないが、父親が世間に自慢出来る子になりたかったのかな・・学芸大に行けば、家族は当面幸福だろう。
映画監督になれなければ、教師になる、という18歳の打算もあった。

しかし、学芸大の合格発表前に、日大の入学金30万を支払わなければならないので、それを親に甘えて頼んだのが、その後、両親への引目になった。

それでも月5千円の特別奨学金は全部小遣いにしてもらって、大学時代は映画を見る金には困らなかったが、教師にはならなかったので、4年間で24万円の返済は助監督2年目から始まり、むくれながらも払い、監督になって暫くして完済した。(親父は、「奨学金なんて返さなくていいんだよ」と言っていた。そういうことが通じる時代があったらしい)

振り返って考えてると金のことばかりになってしまうが、8ミリで映画を作って映画を見ることが、「映画を学ぶ」ことで、それはちゃんとやった優秀なやつで(「小型映画」とかの雑誌で勉強したツモリ)、金をかけてる映画学科卒業生以上に「映画を良く知っている」、現場では「照明部より映画を知ってるんだぞ俺は」というプライドで、たまたま、いま助監督やっているだけで“監督から助監督に降格した”という気分でいるのに、現実の助監督の仕事ってものは、一年経っても“カラダでは理解しきれていない”ので、そのプライドは引き裂かれている・・・という状態だった。

「アメリカの映画大学なんか、クロサワのフィルムを取り寄せて、学生は何十回も見られるらしい」とか、助監督同士で話され、すげーな、と思った。
『風とライオン』(75年)を撮ったジョン・ミリアスが、黒沢映画を40回、50回見た、というキネ旬のインタビューを覚えている。
映画は記憶だ、映画を記憶するには、見て記憶する以外にない・・・と、言われていた頃・・・

でも、去年から新発売された家庭用ビデオデッキ・ベータマックスで、テレビ放送を録画出来るようになって、黒沢映画だって録画して、自分の手元にある状態で勉強出来る時代になったのだ。記憶ばかりに頼るのは、もう古いだろ。

これは、安月給で働く日活社員のなかにあって、自宅通勤だから貯金が出来て、酒もそんなに飲まないで無駄使いせず、最初に買った大きな買い物がビデオデッキ30万、という俺はエラい、他の助監督より、“映画の勉強”という意味ではアドバンテージを持っているはずだ、と思っていた。

いつのことか忘れたが、那須さん以外の先輩助監督に新宿ゴールデン街に連れて行かれ、黒木和雄監督の『祭りの準備』(75年)の話になり、「あ、ぼく、『祭りの準備』持ってます」と言った途端に、その席が凍った・・・
東京12ch 白井佳夫司会の「日本映画劇場」で放送されたのを、やはりCM抜いて、録っていたのだった。

暫くの沈黙の後、酒のグラスをカウンターにドン!と置かれ・・・
「よぉ、金子ぉ・・・映画ってぇのは“持つ”ものなのか?」

と言われた言葉は良く覚えているが、誰が言ったのかは忘れた。日活社員じゃない、外部の助監督だったと思う。
何て答えたのかも覚えていないが、言ったその人の“座った目”というやつは覚えている。ちょっとビビった。
レンタルビデオ店など、怪しいところにしかない時代・・・
映画ってえのは、心に記憶するものだろう、と言いたい気持は分かった。
ベータビデオデッキを持っていることが自慢で、酒飲みの先輩たちはビンボーしてるから持ってないのを知っている、それをあっけらかんとウッカリ言ったフリして言っちゃって、ワザと気持を逆撫でするというヤな後輩だったな、ハハハ。

それから40年経って、“映画を持つ”時代が、過ぎ去ろうとしている・・・

次の仕事は加藤彰監督の『宇能鴻一郎のあつく湿って』が決まり、9/27〜10/13のうちの13日間で撮影された。
チーフは「推理小説1日二冊読む」のが日課の斉藤信幸さん、撮影は水野尾信正さん。

加藤彰さんは、「女の情念の作家」と呼ばれ、本当に真面目な方で、入社前に見た『野球狂の詩』(77年)も加藤さんの作品で、ヒットはしなかったが、“加藤彰の演出は、過不足無くてカッチリして良いな”と、好感を持っていた。日大芸術学部映画学科の出身だ。この時44歳。

入社直後に見た加藤監督作品最新作、青山恭子主演の『果てしなき絶頂』も、成瀬巳喜男テイストのポルノとでも言うか、ポルノシーンはきちんと見せるが、やるせない話で、最後に青山恭子は発狂してしまう。

脚本打ち合わせで食堂に来た新進気鋭の脚本家・31歳の荒井晴彦さんとも、冗談など言うことは無く、バカバカしいギャグに関しても、真面目な顔で打ち合わせていた。

加藤さんの同世代の海野義幸プロデューサーが、「加藤ちゃんは、迷いに迷ってるねー」と呟いたのを側で聞いたが、助監督からは、その迷いというのは分からない。
後から考えると、本来の加藤監督の資質と、「宇能鴻一郎モノ」という“ナンセンスエロの枠”との齟齬(違いというかズレというか)のことだろう、とは思うが・・・

僕も荒井さんに、食堂で意見を言ったが、随分失礼なことも言っていたらしい。
後の映画祭とかで会って、「カチンコの若造が、“この脚本つまらないです”だって、言うんだよ」と言われて冷や汗で思い出したが、当時は、目の前で言っても荒井さんは表情も変えず、意見を聞いてくれている感じであったので・・・言われたことはしっかり覚えていたのですね。
そりゃそうだ。「つまらない」という言葉は、誰から言われても生涯忘れられることは無い。全否定の言葉なので。

物語は、姉(青山恭子)夫婦と同居していて、姉の知らないうちに義兄と関係を持っているオートクチュールのお針子・純子=水島美奈子が、その兄の紹介で、超真面目童貞男の中村と見合いして結婚して・・というのを宇能鴻一郎の「あたし・・なんです」節で、内心のセックス好きのホンネを語らせて、ナンセンスなエロギャグも散りばめる。

見合いの後のデートで夜の公園に行って、隣のベンチのカップルの濃厚キスシーンにドギマギ・・というそのカップルの男を、僕が演じた。

エキストラだと、到底自然には出来ないし、俳優だと役として物足りないので、斉藤チーフから、「金子やれよ」と言われ、知らない女の子とキスも出来るし、役得でいいじゃん、と思って、衣装部から借りたスーツに着替えて、テストの時から思い切り胸を触ってエロい気分でブチュー!とやったら、その子も少し気分出してきて、ボッキしたのを隠していると、加藤監督が、「隣のベンチに、“見るなよ”と、言ってみて」と、真面目な顔で演出された。
斉藤チーフは、ゲラゲラ笑っていた。
隣のベンチでは、水島美奈子ら二人がドギマギしている。
それで、頭に血が登った状態で、もうボッキはおさまっていたが「見るなよ、・・見るなよ!」と二回にして強調して言った方がリアルだと判断してそう言うと、中村役の田山涼成が二回目の「見るなよ」を受けて、カブるくらいに即座に「見てませんよ」とアドリブ。一発OKとなった。
結構、度胸はついてたようで。

キスした子は、そういうことOKの特別料金のエキストラだったのではないか。終わった後は、笑顔で「お疲れ様」でオシマイ。

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この田山涼成さんは、名古屋のNHK児童劇団出身の子役で、かつては高山良一という芸名で、僕も小学生の時に見たドラマ「一直線」や中学生の時に見た「われら高校生」に出ていたので、その話で盛り上がって、結構仲良くなって、撮影終わっての打ち上げが調布「ふなやど」であった後、新宿に二人で飲みに行き、カラオケやって、終電なくなり新大久保の彼のカノジョのアパートに一緒に転がりこんで泊まった。夜食出してもらったかな・・・

驚いたのは、その一年後くらいに、小学校の同級生・野田秀樹の劇団「夢の遊眠社」の公演で突然舞台に現れ、他の劇団員からすると少し年上の劇団員になって、笑わせる芝居を見せてくれことだった。

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話によると、貧乏だった田山さんは、駒場の東大学食で安い定食を食べ、構内でやっている「遊眠社」の公演を冷やかし半分で見たら衝撃を受け、劇団事務所に電話した。
そして野田秀樹と話したいと言っても「今はいない」と言われても食い下がり、しつこく言っているうちに「僕が野田です」と白状され、「これから会わない?」と言われて会って、入団することになった、ということである。僕らより4歳上。
飲んだ時に野田の話とか、したかな・・・「夢の遊眠社って知ってる?」くらいのことは言ったかも。

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僕の映画では、2002 年の『恋に唄えば♪』に出てもらった。
20代と50代は、こんな感じに変貌している。

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映画に戻ると、純子は中村とめでたく結婚して、初夜ではみこすり半で射精されて物足りなかったが、マニキュアを使って血に見せて処女を装い上手く騙し、楽しい新居は1DKのアパートで暮らしていると、隣の浪人生(必ず出て来ますね)が壁の穴から覗いて純子に一眼惚れ、その浪人生は自分のイチモツを出して(映画では見せられないが)、ビッグサイズに感動した純子が、相手は誰でもいいから、それを自分に入れたくなり、壁越しで接合して、純子が「こんな大きくて硬いの、はじめてなんです」と言って昇天・・

この浪人役が、劇団円から来た僕とは同じ歳の新人・平光琢也さんが演じたが、まったく初めての映画出演だったこともあって、凄く緊張していて、すがるような目で見られ、初めての「前貼り」というものを、メイクの末美お姉さんからガムテープとガーゼをもらって、「あたしじゃ恥ずかしいみたいだから、教えてあげな」と言われ、一緒に教えながら付けてあげた。
僕も、男優に、前貼りを初めから全部付けたというのは、彼だけなので、良く覚えている。

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後に、「怪物ランド」のメンバーとしてテレビに登場して売れている時も、謙虚な好青年の雰囲気は、変わってないもんだな、と思った。

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純子は、いろいろな人に間違ってヤられても(中村と中野を間違えて、新居に入って来た全くの赤の他人ともヤってしまうが)その度カラダは歓び、中村との仲も、睦まじく、夫婦愛が深まってゆくのであった・・・

この映画の水島美奈子は、実に可愛らしく撮られていて、それは加藤さんの真面目な演出と、水野尾さんのカメラ技術による賜物だが、設定が、このように、言わば“淫乱”であるのに、その人間性を深く描くわけでは無く、宇能節で軽くスルーされてギャグとなり、当然、そういう商品として作られているのだから完成度はあるが、真面目に作れば作るほど、結果、どこか人工的な感じ、アンドロイド的な感じになっていき、実はそれでエロさが薄まってしまったのではないか、と今になって分析してみる。

僕が、脚本を「つまらない」と言ってしまったのも、シナリオ上ではそういうことが払拭されない感じがあったからだと思うが、荒井さんや加藤さんからすると、そんなことは分かったうえでやってる仕事だ、というのを、この若造に説明する気にもならない、ということで、特に反論もされなかったので、言った方は忘れ、言われた方は覚えている。

水島美奈子の単独主演ロマンポルノは、7本目のこれが最後になり、以後は脇役になってゆくが、かなりの美人なのに、もうひとつ人気が弾けなかった。

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撮影が終わった後、去年、日活で撮影されていた『太陽を盗んだ男』を、日曜なのにガラガラの吉祥寺東宝で見た。吉祥寺松竹の『配達されない3通の手紙』の方が、もうちょっと入っていた。
4分の3まではワクワクして面白かったな・・でも、凄い映画であることは確かだ。
撮影所に伝わる“ゴジ伝説”は相当聞かされていた。
長谷川和彦さんは、日活助監督のチーフ時代に、夕方5時にセットに現れ、「まだやってるのかよ」と凄んだ、というところから「ゴジ」と呼ばれるようになった、と聞かされていた。

読書の方では宮部みゆきの「レベルセブン」とか西村寿行の「汝!怒りもて報いよ」とか、エラリー・クインとかミッキー・スピレーンとかダシル・ハメットとかを読んで、斉藤さんに対抗しようとしていたが1日一冊も無理。

そして、現実のカノジョとの仲は、次第に怪しくなっていった。

教員採用試験に受かったカノジョは、来年の4月になったら教師となって忙しくなり、今のように頻繁に会えなくなるから「あと何ヶ月かな・・」と、笑いながら指を折って数えていた。だからと言って、結婚を促すような気持は無かっただろう。
教師を目指している人と、ロマンポルノ無能助監督とでは、次第に話も噛み合わなくなっていった、というのは、想像出来よう。
濃厚キスシーンを演じた、とかは秘密にしていたが・・・
「原悦子と混浴したよ」とかワザと言ったりして、「え〜ッ!」と言わせ、「露天風呂のシーンで、海パンはいて、カチンコ打っただけだけど」とオチを言っても笑わないカノジョ。

『あつく湿って』が終わった後、10/27から、近鉄バッファローズと広島カープの日本シリーズが始まった。次が決まるまで休みだから昼間からやっているTV観戦が可能だ。
11/4の伝説の「江夏の21球」までの7試合を、テレビ中継で全試合、フルに見られた社会人というのも、珍しいのではないか。
3勝3敗で迎えた第7戦、広島4vs近鉄3の9回裏近鉄の攻撃、ノーアウト満塁を0点に抑えて優勝した江夏の21球は、本にもなっている。江夏はスクイズを読んで外したのか・・・

TV放送が終わった後、カノジョから電話来て、「すごかったわね〜ドキドキしたわ」と言われて嬉しかった。

野球ばかり見ていた訳では無く、城戸賞目指すシナリオ「冬の少年たち」の第一稿も書き終えた。
11/3の文化の日には、撮影所に行き、誰もいない制作部で、自分の原稿をコピーした。コピー代を浮かせるために。
今のようにコピー用紙のチェックなど無かったが、自分のためのコピーだから、誰かに何か言われないかとドキドキしていたが、誰も入って来なかった。
それを持ってバイクで押井守さんの家に行き、読んでもらって厳しく批評してもらった。(押井さんは、まだタツノコプロに入社していないから暇)
批評されて、投稿するレベルに達していない、と自分で分かり、締め切り間近になっているので、この年の投稿は見送った。

那須さんにも読んで貰おうとしたら、真知子さんに渡って、
「“教育問題”って、日本刀を大上段に振りかざして書いてる感じね」
と言われた。
中学3年の2学期の期末テストをめぐる少年群像だけでは映画として物足りないと思い、意欲の無い教師を登場させ、学校が放火される話を付け加えていた。生徒が放火しに来たら、教師が先に放火している、というアイデアを思いついたが、その辺りが、まだ未消化になっていた。
(中学時代、実際に母校・三鷹四中は火事になっている)

次の仕事は11/16インの小原宏裕監督・日向明子主演『桃子夫人の冒険』だと連絡があったが、ちょっとあれ?という感じであった。

それは、去年に引き続き、ホリ企画の山口百恵ちゃん映画が日活に入る、それをエース藤田敏八監督が撮る、という噂で、これに就かせて貰えないかな、ちょうどタイミングが合ってるし、と思っていたからだ。
年末公開の『天使を誘惑』だ。

だが、少しあとで分かるが、チーフになった上垣保郎さんの判断で、セカンド堀内靖弘サード加藤文彦(二人は同期なので、ダブルセカンドとか言われた)の下、僕の替わりに、この年入社の新人・明治大出身の池田賢一が、フォースのカチンコ助監督として就くこととなり、金子が藤田組に就く芽は無くなった。その後も無い。

久しぶりに、野球以外にその時のメモを書いてある・・・

(小原組でチョンボをやって)「今日の僕は、頭は眠っていたようで、去年の『高校大パニック』で那須さんたちを置いてきぼりにしたことを思い出した。全く俺は頼りない!キャリア不足で藤田組を外されたのも当然だ・・そのことは今知ったのだけど・・ああ、しかし、いつまで日活は映画を続けられるのであろう。今日キャスティングが難航しているいつもながらの状況を見ると、日活は、本当に業界の孤児であるということが痛感させられる。だが、日活が映画をやめたら、俺はどうすればいいのだろう」

チョンボというのは、出演が決まっていないが、その役の候補になっていて、ほぼ決まったようなものだがまだ未決の役者に、衣装合わせの予定を入れてしまった、ということで、先方は決定だと思ってしまった、という失敗。
そのまま役は決定出来たので、大事には至らなかったが・・・

神代組のTVでの“金子カチンコダメだった情報”が、伊藤さんから上垣さんに伝わり、「今回、金子はやめとこうか、パキさん大変だし」となったに違いない。だが、次回というものは遂に来なかったので藤田組の現場は知らない。飲んでるパキさんしか・・・

11/11上板東映で『高校大パニック』に参加した狂映舎の16ミリ長編映画『神の堕ちて来た日』を見て、久しぶりに、松井良彦や大屋龍二と会って話した。
映画の内容は良く覚えてないが、大風呂敷を開けたSF大作ふうだったが、迫力を感じさせるまでいってない感じだった。
同時上映は澤田幸弘監督作『あばよダチ公』(74年)であった。一緒に『高校大パニック』を作った澤田監督へのリスペクトであろう。
劇場はスカスカだったが、大屋君も、もう監督で、松井君はチーフだ。
「金子さん、早く監督になって下さいよー」と大屋君に言われたが・・・

追い詰められてる感じで、小原組のカチンコを叩いた・・・

・・・To be continued

(チャリンの方には、荒井晴彦さんの写真を・・・)

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